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タールマンの『引いてダメならあきらめろ』

第1回 野球小僧チキチキペンペン

 皆さんこんにちは。タールマンという者です。初めてこの場に文章を書かせて頂きます。これからも書くことがあると思いますのでよろしくお願いします。
 記念すべき第一回のテーマは先日まで開催されていた世界陸上のことにしようと思っていたのですが、先日編集長の家であった打ち合わせ?の席で随分不評のような気がしたのと織田裕司の司会ぶりが不愉快だったことばかり書いてしまいそうなのでやめます。
 代わりのテーマは高校野球です。編集長にも「結局タールマンは夏の甲子園なんだよ」と言われてしまいましたので。

 僕は鳥取県出身なのですが、現在鳥取県は夏の甲子園7年連続初戦負けという不名誉な記録の更新中です。ですが、80年代前半に倉吉北高校という学校が甲子園を沸かせていたことがあります。
 倉吉北高校という高校名を聞いて、すぐにピンとくる人はよほどの高校野球ファンではないかと思います。
 倉吉北高校、通称倉北は鳥取県の倉吉市という人口五万人ほどの街にあり、10数年前は「山陰の暴れん坊」という異名をとって、剃込みや試合中の唾吐きなどおよそ高校球児らしくない態度で甲子園を沸かせていのです。
 僕の実家は倉北から歩いて10分ほどのところにあり、小学校2、3年生の頃、僕たちは学校帰りに倉北野球部の練習を見学して帰ることを日課にしていました。挿絵1
 当時の倉北は全国から野球の有力選手を集めて、グングンと力を伸ばしてきた私立の新設校という存在でした。
 それまで鳥取県は、鳥取西高校と米子東高校という、県下一、二を争う歴史の長い進学校が甲子園の常連校だったのだが、そこに割って入ったのが、倉北です。当然、古くからの鳥取県の高校野球ファンには、倉北の存在は面白くなく、「あれは鳥取県のチームじゃない」などとひどい言われ方をされていました。でも、小学生の僕たちには違いました。ちょうど高校野球を見始めた頃に、甲子園に出場したのが倉北だったのです。それも、初出場でいきなりの選手宣誓、しかも一回戦であの早稲田実業を破るという快挙を見せつけられては、もう僕たちの心は倉北の虜でした。面白く思っていなかった大人たちも、素直にこの快挙には脱帽するしかなかったと思います。 初出場から、僕が五年生になるまでの数年間、倉北は鳥取県内ではほぼ無敵をほこり、甲子園でもベスト8やベスト4に顔を出しました。
 倉北野球部の練習をよくいっしょに見に行っていた友達の中に竜三というやつがいました。
 竜三の家は貧しい家庭で、父親はいつも家の前に酔っ払って座っていて、学校帰りの僕たちに大声で話しかけてきました。そんなとき、竜三はいつも俯いて父親を無視していました。母親は頭を坊主に剃り上げて、父親のことを口汚なく罵っていました。
 竜三は、勉強はまったくダメでしたが、野球は僕よりも上手かった。でも、勉強がダメと言う事と、家庭環境のせいで学校では当然のように問題児扱いされ、「竜三とは遊んではいけない」と、はっきり言う友達の親もいたくらいでした。
 僕は竜三が好きでした。僕と同じくらい竜三は倉北が好きだという一点で、僕は竜三を好きになったのです。友達の中には、親の影響で鳥取西派や米子東派まだまだいましたので。
 四年生の頃、僕と竜三は特に仲が良かった。いつも倉北野球部の練習を最後まで見みとどけるのは、僕と竜三の2人だけでした。
 あるとき倉北野球部の練習がいつもよりおそい時間までやっていたとき、僕の母親が心配して迎えに来たことがありました。そのとき僕の母親は竜三を夕飯に誘ったのですが、竜三は照れたような、困ったような、変な顔をして黙って帰ってしまった。それ以後、竜三は倉北野球部の練習がいつもよりおそい時間までやると帰ってしまうようになりました。 その年の夏休みのことです。僕は父親と母親と妹の家族四人で、高校野球の鳥取県大会を観戦しに行くことになり、当然倉北の試合だったので、竜三を誘いました。竜三は「行く」と言いました。
 その日の朝、竜三がなかなか来ないので、僕は竜三を迎えに行こうと思って家を出ると、竜三は家の前にいました。
 竜三は僕の父親と母親が挨拶しても、例の変な顔をして黙っていました。車の中でも、僕が話しかけても黙っていて、球場について倉北の試合が始まってからも、黙って見ていました。そして、僕の母親が竜三と僕にアイスクリームを買ってくると、竜三はまたあの変な顔をして、アイスクリームを受け取とりました。僕はそのときになってやっと、竜三を誘ったことを後悔したのです。もちろん竜三が、僕の母親にアイスクリームのお礼を言わなかったから後悔したのではなく、竜三にとってこの場はあまりにも居心地の良くない空間なのだということにそのときづいたのです。それを気づかずに、僕は竜三を誘ってしまったことを後悔しました。きっと竜三はせっかく誘ってくれた、僕の気持ちを踏みにじりたくなかったのだろうと思います。
挿絵2 そんな僕と竜三の気持ちにまったく気づいていない母親は、それからも僕と竜三にどんどん食べ物を買ってきました。ほっといてくれと思う気持ちを声に出せない僕は、怖い顔をして母親を睨み付けた。母親はその僕の顔にすら気づきませんでした。こうなったら一刻も早くコールド勝ちで勝負を終わらせて、僕たちを解放してくれと僕は倉北に願いました。
 しかし試合は、3−8で倉北が破れるという思わぬ結果に終わったのです。
 僕は目の前の出来事が信じられなかった。ふと竜三を見ると、目にいっぱいの涙を溜めていました。
 帰りはさらに地獄だった。倉北敗北の現実を受け取め切れていない僕と竜三の気持ちなどそっちのけで、中華料理屋に連れていかれたのでした。
 僕の父親は竜三に「何が食いたい」と聞きました。この期に及んで、まだこんな質問のできる大人って何なんだと僕は思い、泣き出したい衝動にかられました。でも泣けず、竜三の顔を見ることもできませんでした。
 その食事は僕と竜三にとって、最悪の雰囲気で進みました。僕の両親はその後も意味のない質問をぶつけてきて、あくまでほっとく気はないようでした。竜三はずっと黙っていて、僕は早くこの場が終了することだけを願っていました。
 その日の夜、竜三が母親に連れられて、お礼の挨拶にきました。そのときも竜三は、あの変な顔をして黙っていました。
 その夏、倉北野球部は暴力事件を起こし、一年間の対外試合禁止処分を受けました。
 僕と竜三は、中学生になると違うボーイズリーグのチームになり、互いに新しい仲間も出来て、学校で会ってもほとんど話もしない仲に自然となっていきました。
 倉北野球部は、その後も度々同じような不祥事を起こし、完全に甲子園から遠ざかりました。県外から来る野球留学生のための寮も廃寮になり、同時に僕も、倉北野球部から目を背け始めていました。高校に進学する際には全く倉北に行こうとは思いませんでした。ですが高校生になって、初めて練習試合で倉北とやるときは緊張しました。憧れのスターと初めて会うような気持ちになってしまったのです。さらに驚いたことに倉北のベンチには竜三がいました。僕はこのとき初めて竜三が倉北に行ったことを知りました。僕は、何故かそのとき強烈に焦って竜三の視界から消えようとしました。
 高校時代に竜三のいる倉北野球部と5回対戦しました。結果は僕の5連敗です。竜三とは一回も話しませんでした。目も合わせた記憶がありません。ですが、倉北と試合をするときには常に竜三の視線を感じ、僕も竜三をずっと見ていました。
 結局倉北は竜三のいた三年間で甲子園に出ることは出来ませんでした。
 倉北野球部が再び甲子園に戻ってきたのは、僕たちが21歳の時です。実にあの夏から10年の月日がたっていました。
 10年振りに甲子園に戻ってきた倉北は、あの頃の荒々しさはすっかりと失われ、「今はマナーという財産を得た」とインタビューで監督さんが言われていたように、礼儀正しいつまらない学校になっていました。
 竜三は今、そんな倉北のコーチをしているとのことです。

 

タールマン(2001.9.18)

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イラスト: f401
デザイン: おぬま ゆういち
発行: O's Page編集部