O's Pageバックナンバー月刊文文掲示板次作品

いそのカツオをブッ殺せ! Sumata
<4>

深山に着いたのはそれから約十数分後、時刻にして午後六時を回った頃だった。静岡市内を発ってから二時間弱しか経っていないのに、もっともっと壮大な時間を乗り越えてきたような気がした。

深山は寸又峡温泉街の入り口からすぐの所にある清楚な佇まいの民宿だった。今朝一番に電話予約を入れておいて良かった。とりもなおさずバイクを停めたボクは、玄関に駆け込んだ。

すぐにこの民宿の仲居さんらしき女の人が出てきた。

「まぁ!バイクで来たの?! とにかく合羽外に掛けてらっしゃいよ!」

開口一番そう言った仲居さんは四〇代半ばと思われ、決して美人ではないものの、立ち居振る舞いにどことなく気品があり、その清楚な微笑みは疲労困憊したボクの心身にとっては充分に包容力を含んでいた。ボクは一瞬にして癒されて疲労が少しずつ軽くなっていくのがわかった。案内された部屋=「タニマユリの間」もまた清楚で美しい八畳の日本間だった。



 千頭で降っていた平凡な雨は、寸又峡まで来ると再び山間部特有の濃い霧雨に変わり、日本最後の秘境といわれる寸又峡温泉街の夜を重々しく染めていた。小さな温泉街のほとんどがそうであるように、寸又峡の温泉街も陽が落ちればわずかな灯りしか残さない寡黙な通りが続いていた。ボクは深山から少し離れた所にある町営の露天風呂=「美女(びじん)づくりの湯」に向かっていた。寡黙な通りを寡黙に歩いた。傘を差していた。小さな温泉街を包み込むような奥大井の夜も寡黙だった。



 美女づくりの湯からの帰り道ですっかり冷え込んでしまったので、深山に戻ってからもう一度湯に浸かることにした。深山の内湯はタイル張りの湯船で、大人が三人も入れば溢れかえってしまうほど簡素なものだった。そしてボクを含めてちょうど三人の成人男子が風呂場にいた。ボク以外の一人は、頼りないほど薄くなった白髪に比例してたくましく露出した頭部を持つ、そしてなぜか風呂場なのに眼鏡を掛けている五〇歳前後とおぼしき中年(おじさん)で、もう一人は、虚弱体質と言えばひどいかもしれないが、決して腕白とは言い難い、どことなく冴えない風貌の、そして彼もなぜか風呂場なのに眼鏡を掛けている二十歳過ぎとおぼしき青年だった。二人に挟まれながらボクは寡黙に体を流していた。

「いやーぁ、いい気持ちだーぁ!」

おじさんが湯船の中で思いっきり背伸びをしながら言った。

「オヤジ、恥ずかしいだろ!」

すぐさま青年が戸惑いながらおじさんに向かって言った。どうやらこの二人は親子のようだ。コインシャワーでの習慣が身に付いているせいか、慌ただしく体を流し終えたボクは、おじさんのいる湯船に恐縮しながら入っていった。

「お一人でいらしてるんですか?」

お互いに一呼吸あった後、案の定おじさんが話しかけてきた。さっきボクが体を流しているときからおじさんがボクに話しかけるタイミングを見計らっているような気がしていたので、ボクもタイミングを見計らって湯船に入ったのだ。

「ええ。一人です」とボクが答えると、「どちらから?」とおじさんが再び尋ねたので、「東京からです」とボクは答えた。まるで紋切り型の挨拶をお互いに交わしたわけだが、ボクはこの紋切り型の挨拶をするためにわざわざタイミングを見計らって湯船に入ったともいえる。なぜならボクは、たとえ紋切り型であっても自分から話しかけることをこの上なく苦手とし、加えて最近は、先に触れた「言葉の不毛」と「言語の違い」による「コミュニケーションの齟齬」とでも呼べるような半自閉症状態に自ら陥っていたからだ。

「お車でいらしたんですか?」

三たびおじさんが尋ねたので、「いえ。バイクで」とボクは答えた。するとおじさんは、

「ヒャー、スゴイねぇ! バイクでこんな所まで来たなんて。いやぁ、スゴイ!」と、本気で感心しているのかそれともお世辞で驚いているのか、とにかく必要以上に大袈裟な口調で答えた。おじさんの息子である青年も、本気で感心しているのか、それとも父親の大袈裟な口調を恥ずかしがっているのか、おじさんの横で「うん。スゴイ…」と小さく相槌を打っていた。

「どうしてまた寸又峡なんかに?」

おじさんが不思議そうに尋ねたので、ボクは、「えっ? いや、まあ、何となく…」と答えてもせっかくの会話が弾まないので、実は東海道をバイクで旅をしている途中で突如思い立って寸又峡に立ち寄ったこと、その思い立ちに明確な理由などなく、何となく何かがありそうだと衝動的に思い立っただけで、そもそもこの旅自体が半ば衝動的なものであることなど、ボクはおじさんと青年に簡潔に話した。

「ヒャー、バイクで東海道を! 東海道五十三次の現代版だね!」

おじさんは再び大袈裟に答えた。青年も同じだった。

「いやーぁ、そうですかぁ…私たちは厚木から家族五人で来たんですけどね。もちろん車ですよ。私たちも寸又峡は初めてなんですけど、私が寸又峡に行きたくてね。何しろ金嬉老がライフルを持ってこう、」

「おやじ!」

ライフルを構える格好をしながら威勢よく喋りはじめたおじさんを青年がたまらずたしなめたが、それもおかまいなく、おじさんは年季の入り始めた身体を揺さぶりながら再び喋りはじめた。

「いやーぁ、寸又峡ですよ! 金嬉老事件ご存じですか? 知らないかなぁ…」

「いや、知ってますよ」と答えるまでもなく、おじさんは金嬉老事件のあらましを喋りながらライフルを乱射した。青年は苦笑いをした。ボクもつられて苦笑いをした。



 夕食に呼ばれて大広間に向かうと、静寂とはまるで正反対の喧噪が廊下に響き渡っていた。恐縮しながら大広間に入ると、先刻風呂場で一緒だった厚木のお父さんと青年がまず目に付いた。二人に会釈をすると会釈を返してくれた。そして彼らの隣にいる二人の女性を見たボクは一瞬目が点になった。一見して外国人とわかる、というより明らかに黒人の血が混じっているような目鼻立ちをしたボクよりいくつか年上と思しき淑女が一人と、同じような目鼻立ちの一五歳前後と思しき少女が、それぞれ浴衣をまとって正座していた。もしかしてMISIAを真似した今ありがちのブラックかぶれか? とわざと我が目を疑ってみたが、そうではなかった。いったいこの二人は誰なんだろう? 厚木のお父さん・青年と彼女たちとの構図がこの場ではとても奇妙というか極めて異様に映った。そしてその異様さをさらに際だたせるがごとく、厚木の五人の向かいには男女七人、いずれも五〇代半ばで人生のピークを越えたばかりといった感じの紳士淑女たちが宴を張っていた。彼ら七人の誰もがボクに気づき、とぎれとぎれにボクに目を向けた。ボクは恐縮して思わず誰へともなく会釈をした。誰も会釈を返してくれなかった。

案内された食膳は厚木のお父さんたちの隣で、彼らから微妙な距離を保った位置にあった。微妙な距離は確実にボクを憂鬱にさせた。ボクのこの旅に道連れはいないことを改めて自覚させられたからだ。温泉宿の食宴には家族や友人、恋人などの連れ合いを同伴するのが常識で、オレのような身寄りのない人間はこの場にふさわしくないのか…ボクは向かいにいる中年男女七人の馬鹿笑いを耳にしながら卑屈な気持ちになった。

「いやーぁ、風呂上がりのビールはやっぱり最高ですなぁ!」

厚木のお父さんが至福の表情を浮かべて言った。彼の息子がボクに苦笑いを向けていた。ボクもまたつられて苦笑いを返した。

「いやーぁ、寸又峡といいますと我々の世代はやっぱり金嬉老を思い出しますなぁ!」

厚木のお父さんがすでにできあがったような赤ら顔をして(さっき風呂場にいるときから赤ら顔だった)大声で言った。

「金嬉老、懐かしいなぁ! テレビで見たねぇ!」

中年男女七人の中の一人、荒井注によく似たおじさんが厚木のお父さんに愛想良く応えた。すると荒井注の周りで「金嬉老懐かしいねぇ」「あの当時何歳だった?」などとにわかに話が盛り上がり始めた。どうやら中年男女七人と厚木の親子はすでに親睦を深めているようだった。

「いやーぁ、あのときは夢中でテレビにかじりつきましたなぁ!」

そう言って厚木のお父さんが風呂場の時と同じようにライフルを構える格好をした。

「オヤジ!」

風呂場の時と同じように彼の息子が恥じらいながらたしなめた。すると、「いやいや、坊ちゃん。お父上、なかなかじゃありませんか」と荒井注が陽気に言った。青年はまた苦笑いをした。何がなかなかなのだろう? と思いながら刺身から天麩羅へと箸を移しつつ彼らのやりとりを横耳に聞いて横目に眺めているうちに、ボクは中年男女七人の身分と構成員をおおむね把握してしまった。

「いやーぁ、みなさんは農協の同級生ですか。うらやましいですなぁ。こんな美人にいっぱい囲まれて」

「なぁーに、美人だなんてとんでもない! ブスですよ」

「あら、自分のこと棚に上げてよくも言えたもんだわね!」

彼らは全員、藤枝市にある農協から慰安旅行で来ているようだった。七人の内訳は男二対女五。男性陣は先の荒井注似と、もう一人は平松政次をだらしなくしたような顔つきだった。対する女性陣は、男性二人に“ブス”と連呼されているようにおおむねブスばかりだった。重信房子のような眼鏡を掛けて彼女を小太りにしたようなブスが一人(迫力はあるということ)。化け猫時代の入江たか子を柔らかく縮めたようなブスが一人(可能性はあったということ)。あとは取るに足らないブスが二人。

「いやーぁ…ところで、ここの美女(びじん)づくりの湯というのは女性だけでなく男性にも効能があるんでしょうか?」

「さぁー、男に効くってのはあんまり聞いたことねえなぁ…」

「美女(びじん)って言うからには女だけでしょうよ」

「いや、ちょっと待ってください。確かに字はビジョと書きますが、読みはビジンですよね。この矛盾は捨てておけませんよ」

「ビジンはビジンよねぇ?」

「オマエたちゃブスじゃねぇか」

「まっ、男に効くにせよ女に効くにせよ、実際にその風呂から上がった我々を見れば、大した効果はないということになるんじゃないかねっ」

「いやーぁ、まったくそのとおり! うちの家内も温泉に浸かったら少しは美人になるんじゃないかと期待しましたが、全く変わってませんからなぁ!」

「ご主人、今奥さんが一瞬スゴイ目をしましたぞ!」

厚木のお父さんとそれを受けた荒井注の発言にボクは我が耳を疑った。決して性差別や人種差別をするつもりはないが、このお父さんにこの若さの、しかも黒人の血が混じったような外国人の奥さんはあり得ないだろう!!(家内という呼び方もピンとこない)しかしその後の会話の流れを眺めると、どうやらそれは事実のようだった。ということは、少女の方は奥さんの姉妹でお父さんとは小姑の関係になるのだろうか?(それもまた極めて異様だ)まさか娘ということはあり得ないだろう?!

ところで、その荒井注たち藤枝軍団の中にブスじゃないのが一人だけいることにボクは気づいた。彼女は周りのブスたちと同じように歳を取っていることは変わりないのだが、歳相応の色気を醸し出している美人だった(誰に似ているのかと言われれば、ビビ・ビュエルだろう)。いわゆる熟女とは彼女のようなご婦人を言うのだろうか…その熟女が、先ほどから何度かボクの方へ視線を投げかけているような気がした。彼女は他の六人の談笑にときおり笑顔を見せながらもそれに積極的には加わらず、斜め向かいで息を潜めるようにして独りで箸を取っているボクの方へ関心を寄せているような気がした。ボクは箸を置いた手をビールグラスに移し替える一瞬を利用してさりげなくその熟女に視線を向けた。するとどうだろう、ボクの視線を感じたのか彼女はボクの方に目を向けた。まともに目が合ってしまった。ボクは思わずグラスを置き直して膳の上に視線を落とし、「次は何を食べようかなぁ…」と、おもむろに思った。

「兄ちゃん、何そんなとこで独り寂しくやっとんかい?!」

「えっ??」

いつの間にか荒井注がボクのすぐ近くにいた。彼は徳利を片手に少し怖い目つきでボクに笑顔を投げかけていた。どうやら厚木のお父さんにお酌をしにボクの前を通りかかったようだ。

「あははっ、どうも…」

あまりにも唐突に話しかけられたので、ボクは恐縮しながら愛想笑いしかできなかった。

「こっち来て一緒にやらんかい!!」

「えっ?!」

思いもかけぬ荒井注の誘いにボクは面食らってしまった。正直言って誘われたのはそれなりにうれしかったが、見ず知らずの中年男女七人の中に飛び込んでいくのはかなり勇気がいることだった。ボクは萎縮してしまった。それに荒井注はそう言っているけどそれは他の六人の総意なのだろうか? などと悩んでいる隙に、荒井注は勝手にボクの膳を斜め向かいの彼らの所まで運んでいってしまった。

「まぁ、こっちへ来んかいな!」

呆気にとられている暇もなく、ボクは荒井注に招かれるがまま彼ら七人の宴席に加わることになってしまった。

「あ、どうも…」

ボクは今日一番に恐縮して当てずっぽうに会釈をした。“何しに来やがった?!”というような冷ややかな目でボクを見るのは一人もいなかった。六人みんなが温かく、というより賑やかにボクを迎えてくれた。

「ほれ、とりあえずビール飲みねっ。それとも酒にするかねっ?」

ボクの向かいになった平松政次がグラスいっぱいにビールを注いでくれた。ボクはそれを一口だけ飲んだ。

「なぁーに、一気に飲まんかいな!」

隣になった荒井注がボクを煽った。女性陣からも一斉に笑い声が漏れた。熟女はボクのすぐ斜め向かいにいた。彼女も他の七人と同じようにボクの飲みっぷりに注目していた。ボクは再び彼女を見た。すると彼女は小さく微笑んだ。ボクは思わず、いや、半ば意図的に照れ笑いをしてビールを一気に飲み干した。

「オーッ!!!!!!!」と、大きな歓声がおよそ七人分上がった。

「何だい、やればできるやねえっけ! さっ、もう一杯いこで!」

「はぁ…」

ボクはすでに酔っぱらい始めてた。

「どこから来たのよ?」

荒井注の隣で重信房子が尋ねた。「はぁ、東京です」とボクが答えると、

「このお兄さんはスゴイんですよぉ! 東京から四日間かけてバイクで来たんですって!」と、厚木のお父さんが向かいの席から横やりを入れるように言った。

「へぇー、バイクでけぇ! そりゃスゲエでねえけ!」と、荒井注が相槌を打つと、「ウーン、スゴイ、スゴイ」と、女性陣がはやし立てた。

「大変だったでしょう? 雨の中ねぇ」

入江たか子が気の毒そうな顔をして言った。

「確かに、東京から寸又峡までバイクで来るってのは、スゴイねっ!」

平松政次が評論するような口調で言った。

「いやぁ、スゴイですよ。ホント、スゴイですよ…」

厚木のお父さんが自らの言葉を噛みしめるように続いた。

 ボクは少し戸惑っていた。思い出せば肝を冷やすどころか背筋が凍るどころかどころか寿命の縮むような思いをしてボクはここ寸又峡の民宿深山までやって来た。すると誰もがそんな悲惨な体験をねぎらってか呆れ半分にか “スゴイ!”と称えてくれる。最初に出迎えてくれた仲居さんしかり。風呂場で出会った厚木の親子しかり。いや、彼らより先、千頭で駆け込んだガソリンスタンドのおばさんがそうだった。そして今ここにいる中年男女七人もまた口を揃えて“スゴイ!”と感心してボクに関心を寄せている。はたしてオレは本当にスゴイのか? この賑やかな宴席の渦中で密かに自問自答してみる。確かに今回の旅の発端に“学生時代のうちに何かスゴイことをしなければ…”という発作的な思いつきがあった。しかしそれはあくまでも個人的な範疇での「スゴイこと」であって決して一般的なものではないと思う反面、誰もやったことがないような、例えば風間さんのような、例えば堀江青年のような、例えばチャールズ・リンドバーグのような、例えばデニス・ホッパーとピーター・フォンダのような誰にも真似できないような「スゴイこと」やってやろうという思いもあり、そう思えば思うほどバイクにまたがったときに“オレにできるスゴイこととはせいぜいこの程度のことか…”と自らを卑下せねばならず、だから実際に他人の口から“スゴイ”という言葉が発せられるとどうしようもなく戸惑ってしまうのだった。



「私も一杯もらおうかなぁ…」

唐突にそう言ったのは熟女だった。彼女はグラスに半分残っていたビールを一気に飲み干した。

「ホレ、注いでやらんかい!」と、荒井注がボクを煽った。

「オレたちみたいなジジイに注いでもらうより、若いもんに注いでもらった方が嬉しいわなぁ?」

「そうね…」

熟女は微笑んだ。そしてボクに視線を送った。ボクはビール瓶を手に取った。相変わらずオレは年増だけにはモテルなぁ…などと悠長なことを言っている場合ではなかった。彼女のボクを見つめる瞳に明らかに妖しい気配が漂っていたのだ。このまま彼女のグラスにビールを注いだらきっと何かが起こるに違いない。高ぶる気持ちを密かに抑え、ボクは彼女のビールグラスに腕を伸ばした。すると彼女は再び不敵に微笑んでボクにグラスを差し出した。ボクはゆっくりとビールを注いだ。彼女はボクをじっと見つめているような気がした。

「あっ!!」

ボクの手元が狂ったのと同時に熟女が手を滑らせ、彼女の手からビールグラスが落ちた(ボクの手元が狂ったから彼女が手を滑らせたのか、彼女が手を滑らせたからボクの手元が狂ったのか、わからない)。そして幸か不幸か、グラスは料理の並んだ膳の上をはずれて彼女の膝の上にまともに落下した。

「あらぁ、いやだわぁん!!」

注ぎかけのビールがグラスから勢いよく飛び出し、彼女の大腿辺りの浴衣一面を淫らに濡らした。彼女は立ち上がって濡れた大腿を両手の親指と人差し指でつまんだ。ボクは彼女のもとに駆け寄って「大丈夫ですか?」と一言声をかけた後、仲居さんを呼んで布巾を持ってきてもらって彼女が浴衣を拭くのを手助けすべきだと思ったが、思うように体が動かず、ただ「すみません…」と恐縮しながら彼女の濡れた浴衣を眺めていた。首尾良く布巾を持ってきた仲居さんが、熟女の浴衣が濡れているのに気づいて“あらまあ!”と驚いた。

「若いもんにお酒注いでもらったんで年甲斐もなく興奮してコップ落としてしまったんですわ」

「ちょっとぉ、もぉ、」

荒井注の恥じらいのない弁解に熟女が恥じらった。その恥じらい方はあからさまな恥じらい方ではなく、少々シニカルなのにもかかわらず微妙に自己演出を含んだような恥じらい方だった。そんな彼女の恥じらい方にボクは別の意味で恥じらいを覚えた。すでに酔っぱらっているのかそれとは違うのか、グラスがこぼれる前の彼女の顔を見つめるほどには見つめていないのでわからないが、彼女は少しだけ顔を赤らめているように見えた。

「ねえ、私にもお酒注いでちょうだいよ」

荒井注を挟んだ二つ隣の席から重信房子が身を乗り出してボクに言った。淫らに濡れた熟女の浴衣の奥に彼女の太股を透かし見ようとしていたボクは、重信のいきなりの依頼に内心取り乱してしまった。ボクはちらっと熟女の方を見た。

「注いでやらんかぁい!」と、荒井注が相変わらず煽った。熟女は一瞬顔を上げてボクの方を見たが、すぐにまた視線を下に戻して浴衣を拭き始めた。熟女はボクと重信とのやりとりにあえて無関心を装っているように見えた。そんな彼女の様子にあらぬ懸念と期待を抱きながら、ボクは重信に内心嫌々お酌をしてやった。

「んー、やっぱりいい男に注いでもらったお酒はおいしいわねぇ」

重信は皮肉っぽくとも挑発的とも取れる口調で言った。「いい男」と重信に言われたボクは、気分が良くもなり気持ちが悪くもなった。

「そうよねぇー、ミチコさん?!」

重信が熟女に向けて言った。すると熟女は、

「そうね。でも私、まだ注いでもらったお酒飲んでないから…」と、多少冷たい口調で答えた。ボクはちらっと彼女に目を遣った。彼女はすでに浴衣を拭くのを終えてもとの場所に腰を下ろしていた。今度は目が合わなかった。それでも彼女は皮肉っぽく笑ったように見えた─ミチコって名前なのか! 字はどういう字を書くんだろう? 彼女もボクのことを「いい男」と思っているだろうか…? ボクはもう一度彼女にお酌をしたいと思った。

「ねえねえ、私にもお酒注いでくれないかなぁ…」

いつの間にか入江たか子がボクの隣に居座り、重信房子と同じようにボクにお酌をねだってきた。ボクは正直困っていた。これまでに女性から「いい人」言われたことは何度かあったが、「いい男」と言われたのは全く初めてだったからだ。何を、ただおばさん連中にからかわれてるだけじゃないか! と言われればそのとおりかもしれない。しかし、たとえおばさんといえども女性であることには違いない。だからその口から発せられた「いい男」という単語は前代未聞の響きでボクの聴覚を揺さぶるのだった。

はたして何を困る必要があるのか? 素直に喜べばいいじゃないか! 素直に喜んで幸残り少ない初老の淑女たちの心と体に奉仕してあげれば(いや、体は余分だ)いいじゃないか! しかしそうは簡単にいかないのがボクの複雑な、いや、屈折した心境なのだ。困りながらも請われるがままボクは入江たか子にお酌をする。すると入江が一口飲み終わるか終わらないかの間で残りの取るに足らないおばさん二人も“私も! 私も!”と入江の後ろに並んだものだからいよいよ困惑した。困惑以上にここまで来ると迷惑だった。こんな静岡県の僻地でこのような事態(おばさんの入れ食い状態)にみまわれることを誰が予想しただろう。ボクはほとんど嬉しくない悲鳴を密かに上げながら苦笑いで首筋をかいた。

「モテル男は違うねぇ!」

すかさず荒井注がツッコミを入れる。ボクはさらに首筋をかく。

「やっぱり若いってのはいいねっ!」

平松政次が少々自嘲気味に言った。その言葉にボクの両耳が敏感に反応した。

若さとはあらゆる可能性と同義語なのか? 若いということはすなわち、勉強もできる、運動もできる、仕事もできる、女にもモテルということなのか? 決してそんなことはありゃしない! 平松政次も荒井注も重信房子も入江たか子もその他取るに足らない二人も自らを顧みるがいい。一〇代二〇代が人生最良の時だったかどうか。一〇代二〇代に輝ける青春時代を送ってきたかどうか。いや、そうはいっても世の中の大半の人間はまさにそのとおりかもしれない。特に女性はおおむねそうだろう(花の命は短くて苦しきことのみ多かりき)。しかし少なくともボクは違う。若いからといって何があるわけでもない。何ができるわけでもない。現に二四歳と一一ヶ月のボクは、こんな所でこんなオジンオバン連中に囲まれてからかわれ、苦笑いをしながら首筋をかいているとおり、何一つ積極的生産的可能性はありはしないのだ。だから平松政次の一言は、彼にその気はなくてもボクにとって非常に皮肉に聞こえてしまったのだ。

ボクは半ば投げやりに、しかし表向きは努めて笑顔で、取るに足らない二人にお酌をしてやった。すると二人は年甲斐もなく、醜いまでにはしゃぎだした。荒井注と平松政次と重信房子が何かツッコミを入れてきたが、ボクはもう何だかよくわからなかった。よくわからなかったけど、まぁ、これでいいか…と内心ため息をつきながら思った。そしておもむろに熟女に目を遣った。やっぱり良くない! 彼女はそっぽを向いているのだ。そして心なしか、座布団を後ろ半分はみ出て、つまり半歩引いて座っているように見えた。

“妬いているのか?”と咄嗟に思ってこれまでにない自らの不穏な鼓動を感じたそのときだった─

 

(リアル)まっこい34
2004.7.30


O's Pageバックナンバー月刊文文掲示板次作品
まっこい34駄作連載中 Copyright(C) 2004 (リアル)まっこい34
デザイン: おぬま ゆういち
発行: O's Page編集部