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いそのカツオをブッ殺せ! Sumata
<5>

「バイクで来たんですか?」
─不意にボクの背中から声がした。それはおそらく今日初めて耳にする声だった。その声は熟女でも重信房子でも入江たか子でもない女性の声で、どうやらボクに話しかけているようだった。ボクは不穏な鼓動を抱えたまま振り返った。するといつの間にかボクの背後にあの厚木のブラック系の少女が腰を下ろしていた。まさに今やって来たところだろうか? その子は少し息を切らせているようだった。その子はまるで宝石のように黒くて大きな、明らかに日本人離れした大陸的な広がりと奥行きのある瞳でボクを見つめていた。その瞳は無邪気な好奇心で今にも溢れんばかりようにも見えた。荒井注に宴席に誘われたときよりも、熟女にお酌を貰ったときよりもボクは驚いた。その驚きは、
"ちゃんと日本語しゃべれるのか!"という陳腐な驚き以上に、
"どうしてまたキミがオレの所に…?"という少なからぬ戸惑いを含む驚きだった。そしてそれは明らかに挙動不審な視線と仕草になって現れた。「バイクで来たんですか?」というその子の問いにボクは、「ええ…まあ…」と、失礼なくらい無味乾燥な返答をしてしまった。するとその子は、
「ほらぁ、お父さん、やっぱりこの人だよ!」と言って厚木のお父さんの所へ小走りで戻って隣の青年の肩をたたいた。もう驚くまい我が耳を疑うまいと思ってもやはりボクは驚き我が耳を疑った。その子は確かに「お父さん」と言った。ということは、あの奥さんの姉妹ではなくて娘になるのか?! それにしては、厚木のお父さんはどこからどう見ても平凡な日本人なのにどうしてブラック系の奥さんと娘なのか? そもそも奥さんと彼女の息子ということになる青年とはほとんど歳が違わないじゃないか? ひょっとして別腹か? などとボクは密かに詮索を巡らせてみたが、それではにっちもさっちもいかないので、できればボクの代わりに荒井注たちがそれについて厚木のお父さんに根ほり葉ほり突っ込んでくれればと姑息な期待をしてみたが、彼らに全くそんな素振りはなかったので(ひょっとしてその作業はすでに済んでいるのか?)、ボクは消化不良というより腑に落ちない気分だった。いずれにせよ、摩天楼に旅客機が立て続けに突っ込むような時代だからよほどのことでは驚かないつもりだが、それにしてもこの演歌調のお父さんにソウルフルな母娘というのは、寸又峡の温泉宿での浴衣をまとった宴席という時間と空間を鑑みてもやはり奇妙というか極めて異様だった。そしてまた、荒井注以下いかにも田舎の井戸端会議集団的ノリの面々が、誰一人として厚木の家族について詮索することなく、あるいは外国人(しかもブラック系)ということで一歩距離を置いたりすることも全くなく、すでに肩を組んで歌い出しそうな勢いでうち解けているのも不思議というか不気味だった。それともすべては部落差別がいまだ根強い地方で生まれ育ったボクの偏見にすぎないのか…と自省しつつボクはその女の子の発言を反芻してみて気づいた。「やっぱりこの人」とはどういう意味だろう? 不穏な鼓動が収まったボクは中腰のまま厚木方面に注目した。
「いやーぁ、この子がですねぇ、ここへ来る途中、われわれの車がバイクに乗っている人を追い越したって言うんですよ。私は全然記憶になかったんですけどね。で、さっき私が、あのお兄さんは東京からバイクで来たんだってってこの子に言ったら、じゃあ絶対私たちが追い越した人だって言うもんですから、だったら自分で聞いてくればいいじゃないかって」
厚木のお父さんが大声でボクに言った。その子はお兄さんの横で目を伏せながらボクの方を見て照れていた。ボクはハッと気づいて目から鱗が落ちそうになった。
寸又峡までの道中、ガス欠に襲われて瀕死の形相でバイクを押していたとき、一台のライトバンがボクを追い越していった。ボクはそのシルバーのライトバンにガソリンを恵んでもらおうと必死で後を追いかけたが、あっという間にそれは前方の霧と闇の中に姿を消した。そのときほど自動車という文明の利器が恨めしく思ったことはなかった。
「バイク降りて押してませんでした?」
その子はボクのもとに戻ってきて言った。
「うん…」
ボクはその子に小さく頷いた。
「やっぱりそうだったよ!」
その子は嬉しそうに厚木のお父さんとお兄さんに向けて言った。ボクは熟女のただならぬ態度を忘れてしまうほど、その子の屈託のない態度と厚木のお父さんの証言に衝撃を受けていた。まさかあの暗闇の中で、寒さと孤独と恐怖に戦いていたボクを見初めて、いや、ボクの存在を認めてくれた人たちがいるとは…その衝撃は正直なところ喜びを隠せないものだった。ボクはその子を見つめた。その子はやはり日本人の血が混じっているのか、お母さんに比べて幾分黒人色が薄く、ブラック系いうよりもむしろラテン系といえるような目鼻立ちをしていた(ちょうどハル・ベリーに似ている)。純粋な日本人以上に瑞々しく見えるその黒髪は、ショートカットで若干メッシュがかっていた。その輪郭は流れるような滑らかさがあるものの、額からの鼻筋はどことなくぎこちなく、大きな目と口と合わさると全体の間取りは微妙にバランスを欠いているのだが、それがかえって少女らしい不完全な魅力を醸し出しているようにも見えた。浴衣の僅かな隆起からまだ発展途上であろうその上半身を想像して自分の下半身を意識しながらボクは密かにため息をついた。旅に出ようが他人の心づくしに感動しようが、相変わらずよこしまな欲望を催してしまうオレはいったい何者なんだ?!
「お姉ちゃん、ビール飲むかね?」
荒井注がボクらの間合いに割り込むかのように、その子にグラスを差し出した。
「えっ? アハハハハハ…」
荒井注の遠慮のない誘いに、その子は一瞬戸惑って苦笑いした。
「いいですよねぇ、お父さん?」と、さらに荒井注が遠慮なく厚木のお父さんに尋ねると、厚木のお父さんは、「いいですとも。いいですとも」と言って笑った。お父さんはだいぶ酔いが回っているようだった。
「おい、ビール貰って来んかい!」
荒井注がボクに命令した。ボクはその子に見初められていたことへの感動とその子の浴衣の向こうを想像してしまった自分自身への恥じらいとで内心パニックに陥っていたので荒井注に対する反応が鈍った。
「お姉ちゃんにビールを注ぐのに全部空っぽだから新しいビールを貰って来んかいって言ってるの!!」と、荒井注はビール瓶を片手に振りながらボクに念を押した。ボクは愛想笑いして言われるがまま立ち上がった。何で荒井注に命令されなきゃいけないんだ?! と思いながらも、まぁ荒井注だから仕方ないか…とすぐに思い直した。そして思い出したように熟女に目を遣った。すると彼女は冷淡そうな笑みを浮かべてボクの方を見ていた。彼女はボクと目が合う寸前に視線を膝元に落とした。ボクは立ち上がった。ここへ来て思わぬ出会いからエキゾチックともエキセントリックともいえる厚木の女の子にお酌をできる楽しさを得たが、同時に熟女に目を逸らされた淋しさがそこに錯綜していた。

「自分で注がんかい! 若いもん同士!」
貰ってきた新しいビールを荒井注に差し出すと、荒井注はそう言ってボクに突き返した。荒井注の相変わらずの命令口調に少々腹が立ったが、まぁ荒井注だから仕方ないか…と再び思い直してボクは新しいビールを一本受け取った。
「飲む?」
ボクは受け取ったビールを片手に軽く掲げながら、若干遠慮気味に厚木の女の子に言った。
「─飲みます!」
厚木の女の子はいかにもラテン・ブラック系らしい(全く根拠のない例えだ)歯切れのいい返事をした。一瞬間があったのは未成年者の飲酒だからだろうか? それとも… そんな詮索をするのは詮無いことだと思うほどその子の返事は爽快で、むしろあまりにも爽快すぎてこっちが気後れしてしまうくらいだった。いくら気後れしても粗相がないように、ボクはゆっくりと慎重にその子のグラスにビールを注いだ。
「お姉ちゃん、一気にいこうよ! 一気に!」
荒井注がかけ声を入れた。酒を注がせると必ず一気をさせたがるのが団塊の前後世代の悪い癖だと、ボクは荒井注に批判的な視線を控えめに送った。すると厚木の女の子はボクの注いだグラスのビールを見つめていたのも束の間、よせばいいのに本当に一気に飲み干してしまった。
"オーッ!"というどよめきはボクのとき以上に大きかった。
「ヨッ、なっちゃん!」
厚木のお父さんがまるで合いの手のように歯切れのいい大声で叫んだ。「なっちゃん」とは厚木の女の子の愛称だろうか? おそらくそうだろうが、それは意外だった。ラテン・ブラック系の容姿からボクはその子の名前をそっち系の、例えばローリンとかロバータとか勝手に想像していたのだが、「なっちゃん」とはあまりにも大和撫子的というより、夏休みに田舎の縁側で蝉の鳴き声を聞きながら麦茶をストローですすっていそうな名前ではないか!!
「プハァーッ! おいしいですね!」
なっちゃんは空っぽになったグラスを両手で握り、ボクに面と向かった笑顔を見せて言った。ボクは思わず恥じらいを覚えてしまった。あまりにも面と向かって、しかもこんなにも無邪気な笑顔を見せつけられたことはおそらく生涯初めてだったからだ。
「お姉ちゃん、なかなかイケルでねーけ! もう一杯いかんかね?」
荒井注がまたしてもボクらの間合いを邪魔するように、なっちゃんにビール瓶を差し向けた。するとなっちゃんは、
「アハッ!」と、照れているのかすでに酔っぱらっているのか、頬をポッと赤らめて笑った。
「いいですよねぇ? お父さん」
「いいですとも…いいですとも…」
「オヤジ!」
厚木のお父さんは完全に出来上がってしまったらしく、爪楊枝をくわえて肘枕をしながら夢うつつの瞼で言った。
「キャハッ!」と、なっちゃんは新井注とお父さんのやりとりを受けてボクに照れて見せた。イマドキの女の子特有の文字面になりにくい感嘆詞で、そしていかにもラテン・ブラック系らしい大げさなリアクションだった(またしても全く根拠のない例えだ。おそらくボクの中に"ラテン・ブラック系とはこんなもんだ"という無意識の偏見があること以上に、なっちゃんの挙措をいちいちその素性にこじつけることによって彼女とボクとのギャップから生じる自身の戸惑いを無理矢理紛らわせているのだろう)。ボクは再びビール瓶を掲げてなっちゃんに向けたが、荒井注がまたしても割り込んできて「お兄ちゃん、次はおじさんに注がせてくれや!」と言ってビール瓶を横取りした。
「ささあっお姉ちゃん、遠慮しないでグイッといこうグイッと!」
新井注はなっちゃんのグラスに勢いよくめいっぱいビールを注いだ。またしても団塊の前後世代らしい強引なお酒の勧め方と注ぎ方にボクはうんざりしたが、なっちゃんは嬉しそうにその大きな瞳を見開き、グラスに満たされていくビールを見つめながら恥じらっていた。なっちゃんがボクを見たのでボクは少々心配そうに微笑んだ。するとなっちゃんはよせばいいのにまたしても一気に飲み干し始めた。
"オッ、オッ"というかけ声はすぐに"アァーン…"というため息に変わった。
「なぁーんだい! お姉ちゃん」
「エヘッ…」
なっちゃんはグラス半分を残して一気をやめてしまった。ボクは何だかホッとした。
「飲んでください!」
そのグラスをなっちゃんがいきなりボクに差し出したからいよいよ戸惑った。なっちゃんは何の戸惑いもなさそうな澄んだ瞳をしている。おそらくなっちゃんには何の腹蔵もなく、ただ単純に注いでもらったのを半分残してしまったのでついでだから隣にいるボクに代わりに飲んでくれと言っているのだろう。それともボクに気があるからだろうか? 
「飲んでやらんかい!」
新井注が言った。
「男なら飲んでやらんかい! 女の子が頼んでんだから」
"オレとなっちゃんはすでに男と女の関係なのか…?"とまた余計なひねくれを一瞬抱いてしまったが、それより何より、ボクはこの「男なら─」系の台詞に一番弱かった。そうだ! 新井注の言うとおり、男なら女の子に頼まれたことは快諾するべきだ。なっちゃんにどんな意図があろうとなかろうと、彼女が飲んでほしいと言ってるんだから飲んでやればいいじゃないか!! どうしてそんなに詮索する?! どうしてそんなに消極的になる?! 例えば竹を割ったように、単純明快なリアクションができる男になりたい!! ボクは竹を割るつもりでなっちゃんからグラスを受け取って残りのビールを一気に飲み干した。
"オオーッ!!!!!!!"という歓声がまた上がった。
「おいしかったですか?」
なっちゃんが無邪気な瞳で尋ねた。ボクはまた答えに窮した。おいしいともおいしくないとも言い難い…いや、オレは男だ! 竹を割ったようでなくてはならない!
「うん。おいしかった」
ボクは笑顔ではっきりと言った。
「よかったぁ!」
なっちゃんは会心の笑みを浮かべて言った。なっちゃんの笑顔を見たボクは、何だか今までの自分がとてもつまらないもののように思えてきた。
「よぉし、そしたら今度はもっとおいしい酒飲ましてやるで! お姉ちゃん、今度はお姉ちゃんがこのお兄ちゃんにお酒を注いであげね!」
新井注はそう言ってビール瓶をなっちゃんに手渡した。するとなっちゃんは「ハイ!」と元気に返事したわけではなく、無言で恥じらいながら小刻みに家族のいる方に首を傾けた。
「私ちょっとお手洗いに行って来ます」
そう言って熟女が立ち上がった。それに反応したのはボクだけだった。そして立ち去る寸前、熟女がボクに鋭い視線を向けたのに気づいた。ボクは視線がぶつかり合うのを覚悟で熟女を見上げた。案の定目が合った。熟女の視線をまともに受けたボクは、思わず愛想会釈をしてしまった。すると熟女は"フッ…"と冷笑に近い微笑を鼻で放って去っていった。
「何しとんかい? はよう注いでもらわんかい!」
新井注にせかされて我にかえったボクは、今度はなっちゃんに愛想会釈をしてしまった。なっちゃはボクの愛想会釈に特に反応することなく、わりと手慣れた手つきでボクのグラスにビールを注いだ。ボクはなっちゃんのお酒を一気に飲み干した。
「おいしい。おいしいよ」
ボクはなちゃんに向けてはっきりと言った。
「あ、おいしかったですか…?」
「うん。おいしかった」
「アハッ!!」と、なっちゃんは小さく奇声を上げ、うれしそうに照れて笑った。調子に乗ったボクはもう一杯なっちゃんにビールをついでもらいたいと思った。しかし、
「さっ、お姉ちゃん、今度はお父さんにお酒を注いであげんけ」と言って荒井注がなっちゃんにビール瓶を持たせて彼女の肩をつかんで厚木方面に反転させたので、なっちゃんは荒井注の指図に素直にやる気を見せた。
「終わったらおじさんたちにもお酌してくれるけ?」
「はい!」
なっちゃんは元気よく返事してお父さんのところへ出向いた。

 しばらくして熟女が戻ってきた。
「えらい遅かったなぁ。ひとりでよがっとんちゃうけ?!」
「バカねっ…」
荒井注の下品きわまりないつっこみに熟女は全く動揺することなく、嘲笑うようにはねつけた。まさか…ボクはとっさに彼女の淫らな姿を想像してしまった。
「ちょっと気分が悪くなっただけよ…」
そう言って熟女は髪を掻き上げ、素早く腰を下ろした。ボクは密かに恥じらった。
「お兄ちゃんがお姉ちゃんと仲良くしとるから妬いたんちゃうけ?」
「バカねっ!!」
熟女は今度は多少動揺したのか、急激に恥じらってきつい口調と視線で荒井注に噛みついた。その恥じらい方、噛みつき方が怪しかった。荒井注のつっこみはひょっとしたら図星かもしれない…そんな懸念あるいは期待を抱かせる、いや、むしろ懸念だ…いや、やはり期待だ…いや懸念だ、いや期待だ…なっちゃんがボクを見つめていることに気づいて咄嗟に我に返った。なっちゃんは持ち前の大きな瞳を不思議そうに輝かせてボクをじっと見つめていた。熟女の妖しさに直面して沈着していたボクを怪しいと思ったのだろうか…?
「パーマかけてるんですか?」
「えっ?」
なっちゃんの唐突な問いかけに、ボクは顔面のネジを一つ抜き取られたような間抜け面になった。
「私、パーマかけてみたいと思ってるんですけど、パーマってどうですか?」
なっちゃんはお父さんの視線を気にしながらも身を乗り出してボクに聞いてきた。完全に肩すかしを食らったボクは答えに窮し、
「う、うん、そうだね…」とだけ答えてなっちゃんの髪を眺めた。なっちゃんは見事な黒髪の持ち主だったが、ラテン・ブラック系だからか(またしても偏見だ)艶やかさはあってもなめらかさには欠けていた。しかし、それは少女らしいつぼみの、あるいは五分咲きの可能性でもあり、野暮ったくともやはりそれは不完全な魅力だった。そんなナチュラルな魅力を放棄して早まったおしゃれに手を染めようというのか?! 大きなお世話かもしれないが、"それは違う!"とボクはなっちゃんに一言もの申したくなった。(なっちゃんは自分の魅力に気づいているのだろうか? そもそも自分の本当の魅力に気づいている女性は世にどれだけいるのだろうか? オレは女性を全く知らないけれど…)
「あっ、でも私の場合は、ストレートパーマなんですけど…」
「私もストレートパーマかけてるわよ」
そう言ったのは熟女だった。
「ホントですかぁ?! どうですか、ストレートパーマって?!」
そう言ってなっちゃんは小走りで熟女に駆け寄った。
「そうねぇ、ごらんの通りだけど、あなたが自分で似合うと思うんだったらかけてみてもいいんじゃない?」
母親が娘を諭すように、熟女は優しく微笑んでなっちゃんに言った。これから満開を迎えるであろうなっちゃんの初々しい魅力と、すでに満開を終えたいわば散り際というより枯れた美しさの熟女との、そしてラテン・ブラック系のなっちゃんのクラブ/ハウス的陽気さと、かつて大和撫子であったであろう熟女の茶室的しめやかさとの対比構図(陳腐な例えだが)が、やはり奇妙というか極めて異様に映り、それが好ましいのか好ましくないのか、ボク自身も奇妙というか極めて異様な気分になった。そして、なっちゃん以降初めて熟女がボクらの会話に加わったことに安堵したような懐疑するような気持ちにもなったが、それら以上に、熟女となっちゃんのやりとりを眺めていたら、胸の奥が疼くような嫉妬にも似た感情がわき上がってきたことに気づいた自分に狼狽した。
いったい何に対して嫉妬するというのか? なっちゃんが熟女の方に移動してしまったことにか? それとも熟女となっちゃんが仲良くなりそうなことにか? いや、違う。二人の会話に紛れもない女性の気配を嗅ぎ取ってボクは嫉妬しているのだ。熟女の方は最初から気配どころか強烈な色気を放っていたのでボクはそれを嫌でも意識したわけだが、なっちゃんにもそれと同質なもの、その萌芽が熟女との会話の中にかいま見られたようで、ボクは胸の奥が疼いたに違いなかった。
 なっちゃんに女性は感じたくなかった。女性とはボクにとってかぐわしさや妖しさ、あるいは下半身にわだかまっているよこしまな欲望の対象であり…これがボクの半生におけるありのままの女性像だった。そんな肖像しか描けない自分に嫌気がさし、ボクはバイクにまたがったのだ。そしてなっちゃんに出会った。それは青天の霹靂などという月並みな言葉では片づけることのできない、雨雲を振り切り暗闇を突き抜け、その果てに見つけた一輪の花(異色ではあるが小さく美しい)のようで…例えばそれは谷間の百合のごとく、雨風にさらされることはあっても決して泥まみれになることはない…出会ってどれほどでもないというのに(オレはどれだけなっちゃんのことを知っているというのだ!?)ボクはなっちゃんのことをそのように思っていた。それは全く自分勝手な思いこみにすぎず、なっちゃんにしてみればはなはだ迷惑な話であることは百も承知している。それでもなっちゃんが熟女と髪形の話を始めたとき、ああ、やっぱりなっちゃんもおしゃれを気にするのか…と、つまり、なっちゃんに女性的な俗っぽさを見てしまったことに対してボクは抵抗を感じ、同時に、そこへ自分が入り込む余地がないことを知ってボクは嫉妬してしまうのだった。
「お兄ちゃん、気分でも悪いのかねっ?」
無言でうつむいているボクを気遣って平松政次が声をかけてきた。今度はボクが席を外す番だった。決して気分が悪いというわけではなかったが、気分的にいたたまれなくなった。
「いえ、ちょっと、トイレに…」
そう言ってボクは腰を上げた。熟女となっちゃんが同時にちらっとボクの方を見た。それだけだった。

 足したくもない用を足しながら、ボクは女性に対する自らの屈折した感情について考えた。先に触れたとおり、ボクにはいわゆる彼女がいたことが一度もなく、自らの身体を他人と共有したことが一度もなかった。ボクは女性といわゆる愛し合ったことが一度たりともなかった。そういう意味でボクはカタワだと自覚していた。東海道の旅に飛び出したボクはいうなればカタワ根性の塊であり、日常から続く憂鬱の正体もすべてそこにあることはもはや疑いの余地がなかった。そしてそれは女性に対してだけではなく、何事に対しても他人と歩調を合わせることができないゆえに、ニヒリズムだとか無言の抵抗だとか言って自分自身をごまかし、あるいは合理化することしかできないことに対しても、やはりカタワだと自覚せざるを得なかった。旅に出てまもなく日常以上の憂鬱が襲ってきたのは、行く先々で家族連れ恋人連れ友達連れを見かけ、また、普通の生活を営んでいる、あるいは普通の生活を営もうとあくせくしている人々を見かけ、そのカタワ根性にいっそう拍車がかかったからに違いなかった。
 用を足し終えたボクは小さくため息をついた。このカタワ根性を克服することこそ今後の人生において最大の課題になるであろうことを今まさに確信してしまったのだ。日常を支配する憂鬱も、倦怠も安泰も、罪悪感も後ろめたさも、自己矛盾も自己欺瞞も、ボクにあるすべてのネガティブな思考と感情、感覚はこのカタワ根性を克服することで完璧に解消されるに違いないと。そうするためにはいったいどうすればいいのか? とりあえず東海道の旅などとっとと見切りをつけて明日にでも東京へとって返し、遅ればせながら就職活動を開始し、年度が改まれば心を改めて授業に出席して卒業に向けて確実に単位を取得し、ついでにファミレスなんかでアルバイトを始めて彼女なんか作っちゃたりして…いや、違う! 何となく、いや、明らかに何かが違う! 
 ボクは大きくため息をついた。わからない。いったいどうすればカタワ根性を克服することができるのか? わからない…
「大丈夫ですか?」
トイレのドアを小さくノックする音がしてなっちゃんの声が聞こえた。ボクは今日一番に狼狽し、慌てて下半身を整えてそっと扉を開けた。
「あのっ、おじさんが見てこいって言うんで…」
なっちゃんは少し心配そうな笑顔で言った。
「大丈夫ですか?」
「えっ? あっ、うん。大丈夫だよ」
例によってボクはなっちゃんにぎこちない笑みを返した。するとなっちゃんは今までとは少し違う笑顔を見せた。その笑顔にボクはまた胸の奥が疼いた。いまだままならぬ屈折した感情となっちゃんのこの笑顔とをどのように対比させればいいのか? ボクはなっちゃんの髪の毛に目をやった。広間の異様な熱気で今まで全く気づかなかったのか、なっちゃんの黒髪が意外に妖艶な輝きを放っていることにボクは驚いた。冷たく静かに乾いた廊下でボクだけに見せる艶やかで湿やかで瑞々しい輝き。ボクは思わずなっちゃんのその髪の毛に小指を絡めてかき上げてみたい衝動に駆られた。そうすることで少しだけ屈折した感情に折り合いをつけ、カタワ根性を克服するきっかけをつかむことができるかもしれない…しかし当然ながらそれは幻想に過ぎず、実際にそんなことをすればお決まりの強烈な自己嫌悪に襲われると同時に軽蔑のまなざしにさらされ、屈折した感情はさらに屈折し、カタワ根性はいよいよ取り返しのつかないレベルに達することは火を見るより明らかだった。
「お風呂、行くらしいですよ」
ボクの顔色とタイミングを見計らうようになっちゃんが言った。なっちゃんの唐突な台詞でボクは我に返ったが、その意味が全く呑み込めずにまたしても顔面のネジが抜け落ちたような間抜け面になってしまった。
「なんか、おじさんたちがみんなでお風呂入ろうって…」
「お風呂って…どこの?」
ボクは混乱気味に尋ねた。
「よくわからないんですけど、とにかくお兄さんを早く呼んでこいって言われたから…」
ボクも何がなんだかさっぱり訳がわからなくなり、とりあえずなっちゃんと一緒に広間に引き返した。

 「遅かったやないけ?」
例によって荒井注が詮索するような口調で言った。
「オマエも独りでよがっとんたんけ?」
「えっ? い、いや…」
相変わらず下品な荒井注のツッコミにうんざりしながら、ボクは思わずなっちゃんの方を向いた。なっちゃんはきょとんとしてボクと荒井注のやりとりを眺めていたと思いきや、
「よがってるってなんですか?」と、率直に尋ねた。なっちゃんの発言に広間全体が一瞬水を打ったように静かになった。さすがの荒井注もこれには頭をかきながら苦笑いするしかなかった。ボクはといえば、なっちゃんの問題発言を笑ってごまかす、あるいは"よがるってのはねっ〜"と爽やかに性教育を講義する余裕などあるはずがなく、なっちゃんは知っててわざとカマトトぶっているのか? それともホントに知らないで言っているのか? またしてもつまらない詮索を密かにすることしかできなかった。
「お嬢ちゃんねっ、そういうことはねっ、お父さんに聞いたほうがいいと思うけどねっ」
平松政次がそう言うと、なっちゃんは「よがるって何? よがるって何?」と屈託なくお父さんに詰め寄った。
「そうだねぇ…もう教えてあげたはずだけどねぇ…」
「えっ、聞いてないよ!! ねぇ、何何??」
全く堅苦しさの感じられない、愛嬌たっぷりのお父さんの返答で気まずい空気が一瞬にして和んだ。ボクもホッとしたと同時に、なっちゃんのお父さんのことがとても気に入った。くだらない詮索など金輪際するものか!!
「よし。そしたらみんなでお風呂にでも入りますけ!」
荒井注が音頭をとるように言い、「お父さんも一緒にどうですか?」と、なっちゃんのお父さんを誘った。お父さんは、「いいですねぇ」と、満面の笑みで応じた。
「お兄ちゃん、オマエも一緒に入らんけ?」
「お風呂って、どこの?」
先になっちゃんから聞いてはいたものの、ボクは荒井注の言っている意味が全く呑み込めずに言った。
「ここのお風呂やないけ」
「みんな、って?」
「ここのみんなやないけ」
荒井注が言うには、ここの民宿のお風呂は一応男女別々になっているけど、どちらが男でどちらが女と決まっているわけではないし、どうせお客はこの広間にいるのだけだから、せっかくだからみんなで一緒のお風呂に入ってさらに親睦を深めようということで、荒井注ら藤枝軍団は毎年ここに来て一緒にお風呂に入っているといういわば恒例行事のようなもので、それにボクと厚木の家族も加わらないかと誘っているのだった。それを聞いて思わず開いた口が塞がらなくなった。そのままほかの藤枝の面々に目を向けると、誰もがさも"あなたも一緒に入るわよね?"と言わんばかりの勢いでボクを見つめているので閉口した。
「私たちみんな同級生だから、そういうの全然気にしないのよ」
"同級生だからとかそういう問題じゃないだろう…?! と絶句しながら、ボクは重信房子と荒井注が一緒にお風呂に入っている場面を想像してしまって鳥肌が立ちそうになった。
「ねぇ、一緒に入りましょうよ」
そう言ったのは熟女だった。興奮…困惑…動揺…狼狽…彼女の誘いにボクは一気に体中が火照って視線と仕草をもてあました。
「オマエ、お兄ちゃんのこと誘っとるのけ?」
「そうよ」
熟女はいたずらな笑顔で言った。ボクは痛々しい笑顔で応じるしかなかった。熟女と一緒にお風呂に入っている場面を想像してしまい、下半身が強烈に疼き始めた。
「お姉ちゃんも一緒に入らんけ?」
調子に乗った荒井注がなっちゃんを誘った。
「ねぇ、お父さん、お父さんが一緒ならお嬢さんも一緒に入ってもいいですよね?」
「いいですとも。いいですとも」
「決まり! さっ、行くべ!」
「いや、私はちょっと…」
興奮? 困惑? 動揺? 狼狽? とにかくなっちゃんはとても恥ずかしがった。そしてボクは、熟女と一緒にお風呂に入っているところへなっちゃんが入ってくる場面を想像してしまい、下半身不随の状態に陥りそうになるのを必死に隠していた。荒井注以下藤枝軍団全員と厚木のお父さんはすでに立ち上がっていた。どうやらこれで宴会もお開きという流れだった。立ち上がりながら熟女が相変わらずいたずらな微笑みを投げかけていた。なっちゃんは、とりあえずお父さんに続いて立ち上がったものの、お父さんとお兄さんお母さん、荒井注や重信房子、そしてボクの顔色をうかがいながら右往左往しそうになっていた。ボクは正直言ってあまり気乗りがしなかった。民宿の宿泊客が一期一会で老若男女入り乱れて一つのお風呂に入るなどきわめて常軌を逸する企画で、荒井注や重信房子、なっちゃんや熟女と一緒にお風呂に入るなど全く想像を絶する体験になると思われたからだ(熟女となっちゃんの裸は想像してしまったが)。しかしながら一方で怖いもの見たさというか、そのような常軌を逸する想像を絶する企画体験に憧れる向きもあり、だからこそ興奮困惑動揺狼狽するのだった。

(リアル)まっこい34
2004.11.09


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まっこい34駄作連載中 Copyright(C) 2004 (リアル)まっこい34
デザイン: おぬま ゆういち
発行: O's Page編集部