Sumata <7> |
夢のようでも悪夢のようでもあった混浴から上がると、ボクは藤枝軍団の部屋を訪ねた。すでに布団が敷き詰められて隅にやられたテーブルの上にはiichikoやら柿の種やらが散乱し、いかにも団塊の前後世代の酒盛りといった様子だった。そこに熟女がいないことにボクは気づいたが、先刻の宴会と同じように荒井注が有無を言わせずボクを引きずり込んだので疑っている暇もなかった。強引にiichikoを持たされて乾杯をしたあと、ボクはあらためて今回の旅のいきさつを彼らに簡潔に話すことになった。すると予想はしていたが、荒井注や重信房子の浪花節を聴かされる羽目になってしまった。密室で孤立無援となっての浪花節攻撃は結構堪えたが、まんざら悪い体験ではないようにも思えた。そうこうしているうちに熟女が現れた。彼女はボクを見つけて一瞬驚き、ボクが軽く会釈すると動揺したような苦笑いとも照れ笑いともつかない笑みを漏らした。おそらくそれは一緒にお風呂に入って間もないこと対する恥じらいだろうと理解できた。同じようにボクにも恥じらいはあったが、彼女の笑みについて下手な詮索や想像をすることはもはやなかった。
全員が揃ったところで改めて乾杯となった。そこでボクは初めて本格的な自己紹介をすることになった。
「芸術学部って何を勉強するんかい?」と荒井注がボクに尋ねたので、「文芸学科っていって、ボクの場合は言語学を土台にして小説を書く勉強をしています。一応…」と答えると、
「小説家かねっ。じゃあ将来は直木賞作家だねっ」と平松政治が反応し、
「今のうちにサインもらっとこうかなぁ!」と入江たか子が囃した。「小説家=直木賞=サイン」という短絡的な発想がいかにも非読書階級的で嫌だったが、「どんな小説書いとるんかい?」と、突っ込まれるよりはマシだった。
「そういえばミチコさんも芸術家よね」
重信房子が熟女を見て言った。すると彼女は、
「えっ? うーん…」と、首を傾げながらボクを見て照れ笑いをした。
「彼女はねっ、バレリーナなんですよっ」と平松政次が言ったのでボクが目を丸くすると、
「ずいぶん昔の話だけどね…」と熟女は小さく頷いて恥じらった。その恥じらい方が熟女っぽくないというか、どことなくなっちゃんを感じさせるようでかわいかった。聞けば彼女はクラシックバレエをやっていて学生時代には全国大会に出場したこともあるという。そう言われて初めて彼女のスッと反った背筋や歳のわりに張りのあるふくらはぎに納得がいった。無骨な藤枝軍団の中にあって唯一彼女がボクに近いセンスの持ち主であることを(もちろんボクは自分のことを芸術家だとは思っていないが)知ったこともちょっとした喜びだった。
「ちょっとオマエやってみんかい!」
荒井注が熟女をけしかけた。しかし熟女は、
「もう昔のことだから…」と苦笑いをして断った。
「久しぶりに見てみたいなぁ、ミッちゃんのバレエ」
「そういえば入社した年だったかねっ? みんなで発表会見に行ったの。あれ以来だから三〇年ぶりくらいになるのかねっ?」
入江たか子と平松政次が次々に促しても熟女は苦笑いするだけだったが、
「おい、オマエも見たいだろう? こいつのバレエ」と荒井注がボクに振ったことで様子が変わってきた。ボクは「ええ…」と、とりあえず生返事をしたが、浴衣姿でどうやって足をあげるのだろう? と心配のほうが先に立った。それでも、
「すごくキレイだったのよ、ミチコさんの若い頃のバレエ」と重信房子がボクに言ったので大いに想像力を掻き立てたれた。ボクはちょっとおどけた笑顔で熟女を見た。すると彼女はうつむいて恥じらいながら、
「じゃあ、ちょっとだけなら…」と言って立ち上がった。ありきたりの拍手と歓声が一斉に上がったが、ボクは熟女の下半身に釘付けになっていた。畳の上に立った彼女の浴衣の重なり目から、スッと彼女のふくらはぎから伸びてつま先立ちになった。そして足首と膝を伸縮させながら前後左右にバレエの基本的なステップを踏み、最後にクルッと一回転した。そしてそれが終わるとそそくさともといた所に戻ってしまった。
「何だよ! もう終わりかよ?」
すかさず荒井注が突っ込むと、熟女は苦笑いをして頷いた。彼女が足をあげるのを見てみたかったのでボクも少しがっかりしたが、それでも今のだけでも充分に美しかったし、それとは対照的に彼女のそそくさとした戻り方、苦笑いをした頷き方がとても滑稽だったので、ボクは期待以上のものを見た気がした。
「もう少しいろ」とみんなが引き止めるのを丁重に断ってボクは自分の部屋に戻った。独りテーブルの前に正座したとき、強烈な感傷が襲ってきた。目を閉じてボクはその感傷に浸った。今日一日は壮絶な一日だった。南アルプス裏側の山道での死闘からここ寸又峡の民宿=深山での触れ合いへ。丸子路辺りでどこへ寄り道しようかと地図を睨んで悩んでいたのがずいぶん昔のことのように思い出される。その温度と照度のあまりにも激しい落差に、すべての喜怒哀楽が包括されたような、自分が一大叙事詩の主人公になったような巨大な感情と感覚に包まれた。ボクはつい数時間前の広間と風呂場での映像を反芻していた。熟女の浴衣姿と一糸まとわぬ姿が立て続けに思い出され、しばらくなりを潜めていたよこしまな欲望がここぞとばかりに再び沸き上がってきた。この期に及んでまたしてもか!!と、いい加減自分自身に愛想が尽きそうになったが、やはりこれが現実なのか…と、ある意味諦めた。それならばいっそのこと再びスッキリしたところで今日一日を整理、というより総括すればいいじゃないか!?(本当にスッキリすれば苦労はないのだが)と、ボクはさっそくその行為に及んだ。しかしすぐに熟女の浴衣と裸の上になっちゃんの瞳と笑顔が重なったので、ボクは右手を止めた。
なっちゃんの瞳と笑顔─それはボクが今までに出会ったあらゆる対象の中で最高の美しさと輝きに満ちているように思えた。そしてなっちゃんの無邪気な一言一言は、どんな音楽や文学あるいは政治家や知識人たちの日本語とは比較の対象にならないくらい純粋で美しい響きを放っていた。ボク自身、初めてかぐわしさや悩ましさの対象としてではなく、純粋な五感で女性をとらえることのできた驚きと喜びで満たされつつあった。なっちゃんとの間に「言語の違い」は感じられなかった。ただし、それはなちゃんがまだ子供であるがゆえの感覚と感情であることはわかっていた。それでも女性としてだけではなく、一人の人間に対して純粋な五感を得ることができ、コミュニケーションの齟齬を来すことなく会話と間合いを楽しめたこと自体が一つの驚きであり喜びのような気がした。
ボクは中途半端な総括はやめにし、窓を開けて夜空を眺めた。星は一つも見つからなかったけれど、なかなか(・・・・)の夜空のように見えた。奥大井の山々が吹き下ろす夜風が冷たく頬を打ったけれど、それがかえって心地よく感じた。
明日はなっちゃんに会えるだろうか…? 一緒に夢の吊り橋まで寸又峡を散歩することができるだろうか…? もしそれが叶わないのなら、今夜もう一度なっちゃんに会いたいと思った。今、ボクのいるこのタニマユリの間の扉をなっちゃんがノックすることを期待したが、それこそ叶わぬ願いだとボクは失笑した。それなら今夜一晩は、なっちゃんの残像をしっかりと胸に抱いて眠りたい。せめて夢の中でなっちゃんに逢えれば…そのとき、夢かうつつか、扉をノックする音が聞こえたような気がした。ボクはハッと我に返って息を潜めた。もしかしてホントになっちゃんが…期待が現実になるかもしれないという興奮と、まさかそんなことがあるはずはないという冷静さがせめぎ合ったあと、ひょっとして耳の錯覚ではないか?と、ボクは我が耳を疑った。しかし、もう一度、はっきりとノックの音が聞こえてきたとき、ボクは新たな興奮を感じて足が棒になった。その興奮は一つの冷静な予感を伴っていた。
扉を開けると、そこに立っていたのは熟女だった。
「ごめんなさい、突然。寝てた?」
彼女は遠慮がちな笑顔で言った。
「いえ、まだ寝てなかったですけど…」とボクが言うと、
「良かったら飲み直しません? 二人で」と、彼女は両手に持ったハウスワインの瓶とiichiko用のグラスを掲げて微笑んだ。
「いえ、明日が早いし先が長いので遠慮します」と断れるはずもなく、「ええ。じゃあ…」と、ボクは例によって曖昧な返事とぎこちない笑顔でなすがままに彼女を招き入れた。
「みんな酔いつぶれて寝ちゃったけど、私まだ眠くないし、それに何か飲み足りなくて…迷惑だったかしら?」
腰を下ろすなり彼女は弁解するように言った。
「ええ。迷惑です」と言えるはずもなく、「いえ、そんな…」と、相変わらず曖昧でぎこちない返答をしながら、予感が的中したことに対する動揺と困惑を隠すのに精一杯だった。彼女が訪ねてくることを予想していたわけではないが、ノックの音を聞いた瞬間、"なっちゃんだったらいいなぁ…"という期待を押しのけて"もしかしたら熟女かもしれない!!"という直感が働いてそれが現実となった。それはなっちゃんの瞳と笑顔に対する期待とは裏腹に熟女のかぐわしさや悩ましさに対する本能がいまだ存在することの裏付けであり、同時にそれはなっちゃんの瞳と笑顔をきっかけにカタワ根性を克服するきっかけをつかもうとしていた自分自身への裏切りでもあり、結局はそのかぐわしさや悩ましさを自ら体で手に入れることでしか満たされないのか…と自分自身に失望せざるを得ず…そんな理屈より、熟女と二人きりになったという事実を前にして下半身の膨張が一瞬にして最高潮に達し、できることならその勢いに任せて熟女に身を預けてしまいたいというありのままの自我と、なっちゃんと自分自身を裏切ってはいけないというあるべき自我が壮絶にせめぎ合い、ボクは困惑し動揺するのだった。そんなボクの心理をまるで見透かしたかのように熟女は視線と同時に肩と膝を半分ボクに寄せた。
「あのっ、バレエ、良かったです…」
ボクは咄嗟に彼女から身を呈すように言った。
「フフッ、ありがとう」
彼女は恥じらいながら微笑んだ。それは先刻広間で再三見せたのと同じ意図的な恥じらいと微笑みだった。
「とりあえず乾杯しましょ! 二人で」
二人で…彼女の一言にボクの心が急激に傾いていくのを感じた。今までボクは意図的な時間と空間以外のところで女性とふたりきりになったことが一度もなかった。それがカタワ根性の一因になっていることは間違いなかった。だから、今こそ待ち望んでいた劇的な時間と空間ではないか!! 劇的な時間と空間─それは率直に言えば行きずりの一夜…彼女とボクは親子ほども歳が離れている。しかし、そこに背徳的な趣は全くなかった。それがあるとすればやはり…
「乾杯!!」
彼女がボクのグラスに自分のそれを重ねた。ボクはワインを一口飲んだ。味もアルコールも感じるはずがなかった。しばらく彼女から目を逸らすとも逸らさないともつかぬような視線で手持ちぶさたになりながら沈黙するしかなかった。大人の女性のかぐわしさがお酒と温泉の香りと相まってボクの嗅覚を誘惑した。浴衣の胸元から彼女の胸の谷間がかいま見えるような気がした。
「携帯電話持ってる?」
彼女が唐突に尋ねた。それが何を意味するのか全く見当がつかなかったが、とりあえず、「いえ、持ってません」と答えた。かつてはボクも携帯電話を持っていたのだが、すぐにやめてしまった。決して頻繁に利用していたわけではないが、何となく煩わしかったし、授業中だろうと電車の中だろうと周囲の節操のない様子を見るにつけ、"これこそテレビ言語・やらせ言語が身体化した極致じゃないか!?"とどうにも嫌気が差してきたからだった。しかし、今回の旅で未曾有の憂鬱と孤独に襲われたとき、"携帯があればなぁ…"と何度か思ったことがあったが、そう思う自分の薄弱さにまた嫌気が差していた。
「あっそう。珍しいわね」
ボクの答えを受けて彼女は意外そうに言ったあと、
「出会い系サイトって流行ってるらしいけど知ってる?」と再び尋ねた。ボク自身はそれにほとんど興味はなかったが、大学の同級生でそれにハマって苦い経験をしたり、ごくまれにオイシイ思いをした奴が何人かいるのを知っていた。しかしそれは言わずに、
「知ってますけどやったことはないです」とだけ答えた。
「ハァ、何か出会いないかなぁ…」
一呼吸あった後、彼女は短くため息をついて言った。それがいかにもボクの好意的な反応を期待するような言い草で油断ならなかったが、何かしらの言葉をかけないわけにはいかなかった。すると彼女は、
「女なら誰だっていくつになってもステキな出会いに憧れるものよ」と言って不敵に微笑み、また半歩ボクに近づいた。もはや誘惑されているのは明らかだった。彼女はボクと肩が擦れ合い吐息が触れ合う距離にまで迫っていた。彼女の言葉は意味深だった。ボクへの誘惑文句であると同時にそれなりの真実を語っているようにも聞こえた。彼女は結婚して子供がいるのだろうか? 今までにどれくらい男性遍歴を重ねてきたのだろうか? いや、真実というより、むしろこれもまた現実だと思った。彼女がどのような社会的存在、あるいは家庭的存在なのかは知る由もない。ただ、ボクの目の前には「女なら誰だっていくつになってもステキな出会いに憧れるものよ」とつぶやく、親子ほど歳は離れているが身震いするほど魅惑的な女性がいる。そしてボクはカタワ根性を初めとしたあらゆるネガティブな思考と感情と感覚を抱え、それを克服したいと志しながらも自己憐憫を繰り返すことしかできない悲劇的な(それとも喜劇的か?)存在…
「今夜は飲み明かしましょう」
そう言って彼女はボクの肩に軽くしなだれかかった。今夜は…そう! 今夜だけならかまわない! 今夜だけなら─全身に燃えたぎる蒼白い炎のような欲望に身を任せてボクは彼女を抱き寄せ、彼女のうなじを掻き上げて有無を言わせず彼女の唇を奪った。恍惚の視線で崩れ落ちそうになる彼女をさらに手中に収めるべく、彼女の浴衣の胸元を強引にさらい、露わになった彼女の乳房を両手で鷲づかみにして持ち上げ、彼女の乳首を舌唇で何度も吸い上げ舐め回した。彼女の深く重たい息づかいを耳元に聞きながら、彼女の浴衣の裾から右手を忍ばせて彼女の股間をまさぐった。ボクの人差し指が彼女の秘所に触れた。そこは冷たくもあり生暖かくもあった。人差し指が上下左右に移動するたびに彼女の息づかいは激しさを増した。そしてボク自身も彼女と心中すべく彼女の中心に侵入した。彼女はボクの首筋に力一杯しがみつき、激しく突き上げる振動に必死に耐えながらも、時々悲鳴のような甲高い声を上げた。夜の静寂の乾いた空間にお互いの湿った体音が木霊した。初めて味わう快感と興奮ともに、ボクは身も心も彼女に捧げて彼女の上に崩れ落ちた。
「どうしたの?」
─しかし、それは想像でしかなかった。実際は奇妙な触覚と強烈な嗅覚に驚愕し、その意に反して下半身が完全に萎えてしまっていた。
「い、いや、ちょっと…」
興奮困惑動揺狼狽どころの騒ぎではなかった。熟女がボクの下半身を愛撫すればするほど、ボクがその行為に応えようとすればするほど、ボクの下半身はますます色気をなくし、それどころか彼女の体に対して全身全霊で拒絶反応を示してしまうのだ。彼女の体に触れながら全く別の女性を想像する(過去の記憶を掘り起こす)という極めて不本意な試みまで行ってみたが、それは焼け石に水でしかなかった。
「ダメね…」
そう言って熟女は愛撫をやめてボクから離れ、呆れるようなあるいは蔑むような視線で薄情な笑みを浮かべた。
「すみません…」
あえて謝る必要があるのかどうかわからなかったが、やはり謝るしかなかった。
「どうして?」
どうしてといわれても…生身の女性の体が本当はこんなものだったなんて…と正直に言えるはずがなかった。
「すみません…」
ボクが再び謝ると熟女は"フゥッ"と短いため息をついて言った。
「やっぱり若い子じゃないとダメなのね…」
その一言がボクの胸にグサリと突き刺さった。それが図星だったからではない。たとえ若い子だったとしてもおそらく、いや、間違いなく同じような事態に陥っているだろうと不本意ながら、極めて不本意ながら悟ってしまったからだ。もし若い子だったら…例えばなっちゃんのような…なっちゃん!! ボクは頭を抱えてその場にうずくまりそうになった。なっちゃんの瞳と笑顔を裏切ってしまった!! なっちゃんの瞳と笑顔でカタワ根性を克服するきっかけをつかもうとしていた自分自身を裏切ってしまった!! ─それはまさに絶望と呼ぶにふさわしかった。
「帰るわね。なんか悪いことしちゃったみたいね」
熟女は再び冷笑か失笑かすると、浴衣の乱れを整えて立ち上がった。ボクは何も言うことができなかった。ただうつむいたまま彼女を見送るしかなかった。
「じゃ、また明日。お休みなさい」
(リアル)まっこい34
2004.11.15
まっこい34駄作連載中 Copyright(C) 2004 (リアル)まっこい34 デザイン: おぬま ゆういち 発行: O's Page編集部 |