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いそのカツオをブッ殺せ! Sumata
<8>

 「最悪だ!! 最悪だ!!」
熟女が去ってすぐボクは頭を抱えてその場にうずくまった。熟女に恥をかかせてしまったことと自分が恥をかいてしまったこと以上に、なっちゃんの瞳と笑顔を、翻って千頭のガソリンスタンドでのおばさんの心づくしを、そしてそれらから得た自分自身の素直な感情とささやかな希望をいとも簡単に裏切ってしまったことに対する自己嫌悪と自己叱責が、暗闇との死闘の時とは全く次元の違う、全身から血の気が引くような心の底が堅く凍り付くような救いようのない絶望感となって襲ってきたのだ。なぜなんだ? なぜオレはこんな絶望感にさいなまれなければならないんだ?! もし熟女との行為が上手くいっていればこんな絶望感にさいなまれることはないのか?? もしなっちゃんとそんな行為に及ぶことになれば…わかってる、わかってるんだ!! それならば、オレをここまでおとしめたことに対していったい誰を責めるべきなのか? 熟女なのかなっちゃんなのか自分自身なのか??? それともオレの体質気質なのかそれを育んだ家庭環境と社会環境なのか?? それとも両親の遺伝子なのか? それとも星の下という運命なのか…? わからない。全くわからない。全くわからないけれど、この絶望感は何とかしたい。早く何とかしなければ、もうここから飛び降りて死んでしまいそうだ!! そう言いながらも本気で死んでしまう勇気も覚悟もないことを、そもそもたかがこれしきの高さ(二階建ての二階)から飛び降りたところで死ねるわけがないと早くもわかったボクは、再び頭を抱えてその場にうずくまった。
「チキショウ! チキショウ!」
ボクは再び声に出して叫んだ。これが憧れ続けていた女性との本当の交わりなのか?! この嗅覚と触覚こそが事実であり現実であり真実であるのか?!
「ダメね…」
熟女の台詞が脳裏に甦り、ボクは枕と掛け布団をやけくそで払いのけた。ホントにオレはダメな男なのか?? ホントにオレはダメな男なのか?? ホントにダメな男なら、ホントにダメな男なら、オレはなっちゃんを犯してやる! そうだ、なっちゃんを犯してやるんだ!! おそらくなっちゃんは処女だろう。もし処女じゃなかったら…処女だろうと処女じゃなかろうと、遅かれ早かれ処女は失われる運命にあるんだ。それこそ放っておいたら向こうでとんでもない黒人か囚人なんかに強引にトイレに連れ込まれてやられてしまうかもしれない。それは不幸だ。だったらオレがやってやる。オレが今ここでやってやったほうがなっちゃんにとっても幸せじゃないか─そんな手前勝手な屁理屈より、どうしてもこのままでは収まりがつかなかった。悔しくて不甲斐なくて、とにかくすぐにでも誰かと満足のいくセックスをして熟女との失敗をリベンジしたかった(またしてもどこかで覚えのある発想、というより、「後ろ向き・引き返し」のボクの半生そのものではないか!!)。それにはなっちゃんが一番ふさわしかった。単にリベンジというだけではなく、処女の少女を、しかもアラブ系アメリカ人とのハーフでニューヨークに進学する、しかも温泉宿の真夜中に夜這いをかけるという最高に常軌を逸する想像を絶する企画を決行して成功させることで、カタワ根性を克服するだけでなく、"誰もこんな体験をしたことないだろう!!"という最高の優越感と選民意識まで一気に駆け上ることができるのではないかと思った。ボクは立ち上がった。

 「処女だよ…アラブ系だよ…コロンビア大学だよ…」
全く人気のない真夜中の廊下で独り、ボクは声に出して呟いていた。そのまま向かい側のなっちゃんの部屋のドアをノックしようとしたが、いったん思いとどまって洗面所に向かい、鏡の前に立って自分の顔をまじまじと眺めた。この顔があの子を犯すのか…ボクは咄嗟に鳥肌が立った。ついでにまたお風呂に入り直して万全の体勢を整えようかと思ったが、そこまでする時間は惜しかった。時刻は優に午前零時を回っているはずだった。きっと今頃なっちゃんはかわいい寝息を立てて眠っていることだろう。ボクは深く息を吸い込むとそれを潜めて再びなっちゃんの部屋の前に立った。思い切ってノックする前に念のためドアノブを回して鍵が掛かっているか確認してみた。当然鍵は掛かっていた。ボクは小さくゆっくりとなっちゃんの部屋の扉を叩いた。しばらく待ってみたが何の応答もない。当たり前だ!! 何を期待していたのか?! 都合良くなっちゃんが顔を出すとでも思っていたのか?! それでももう一度それを期待して扉を叩いてみたが、やはり何の応答もなかった。弱ったボクは闇雲にノックしそうになったが、それはやめて考えを変えた。ボクは階段を下りて玄関に向かった。ライディングブーツ以外の適当な履き物が見つからなかったので裸足で外に出た。雨こそ降っていなかったものの、途切れ途切れに突風が吹きすさぶ冷たい山の夜だった。そんな戸外を裸足で移動し、なっちゃんの部屋を目指した。深山の外壁をよじ登って窓からなっちゃんの部屋に忍び込もうと、つまり本格的な夜這いをかけようというのである。もし見つかったら大変なことになるとか、実際になっちゃんの部屋まで登り切れるのかとか、仮に登り切れたとしても窓に鍵が掛かっていたら元も子もないとか、そもそもこれは立派な犯罪行為ではないかとかはこの際一切関係なかった。なっちゃんの部屋はちょうど風呂場の真上に位置していた。見上げても灯りらしい灯りは全く射していなかった。ボクは雨樋を伝って外壁をよじ登り始めた。幼い頃、地元の小学校や近所の部品工場によく夜中に一人で侵入していたので、昔取った杵柄で意外と簡単に風呂場の屋根まで辿り着くことができた。ただ問題はここからだった。風呂場の屋根からなっちゃんの部屋の窓まで、下からの見た目以上に高さがあったのだ。七・八〇センチ前後ボクの身長をオーバーしていた。しかしボクはそれに怯むことなく、思いっきり垂直跳びをしてベランダ状になっている窓柵にぶら下がった。そして一気に懸垂をして何とか強引に臍の下までよじ登ることに成功した。雨露と埃で手のひらはもとより、肘と胸から腹まで濡れに汚れたが、そんなことは全く意に介さず、"週刊少年ジャンプの広告で見て通販で買ったブルーワーカーでかつて鍛えたオレの肉体もまだまだ捨てたもんじゃないな!"と自画自賛したのも束の間、無情にもというか案の定、窓に鍵が掛かっているのを知ったボクは地団駄を踏むにも踏めず、"チッ!"と舌打ちをした。せめてカーテンの隙間から中の様子がうかがえればと思ったが、それも無理だった。"クソッ、こうなったら窓ガラスを叩き割ってそのまま押し入ってなっちゃんだろうと誰だろうとなりふりかまわず犯しまくってやろうか!!"と一瞬考えたが、そんな考えを抱く自分がそら恐ろしくなり、得も言われぬ気分になってボクは風呂場の屋根に着地した。
「ハァーァ…」
ボクは長く重たいため息を一つついた。絶望感の結末は最高の優越感や選民意識などではなく、平凡にして最悪の虚脱感と疲労感だった。
「何をやってんだオレは?!」
ボクはすべてが無性に虚しく思えてきた。結局のところそれらは、これまでボクがカタワ根性、というより人恋しさや物欲しさを解消しようと手を変え品を変えして失敗したあげくにいつものところに落ち着かざるを得なくなったときに訪れる虚脱感と疲労感と何ら変わりなかった。所詮オレはこの程度の人間なんだ。旅に出たところで何が変わるわけでもない。素直な感情やささやかな希望という自分自身への驚きと喜びも、あくまでも旅という非日常的特別な時間と空間においてのことであり、それは決して「新たな自分の発見」などではなく、ましてや憂鬱な日常を脱出する糸口にもカタワ根性を克服するきっかけにも絶対になり得ないのだ。それを悟りというのか諦めというのかわからなかったが、どちらにせよたかがしれていると思った。ボクは部屋の中に戻った。時計を見るともうすぐ午前五時を回ろうとしていた。そろそろ空が白んでくる頃だろう。ボクはカーテンを開けようと手を掛けたが、実際に空が白んでくるのを見ると虚脱感と疲労感が倍増しそうな気がしたので、それはやめて布団に潜り込んで無理矢理目を閉じた。二・三回くしゃみが出た。喉と鼻の奥に違和感があった。最悪の予感がした。

眠ったのか眠らなかったのかわからないまま目覚めると喉と鼻の奥の違和感は明らかな痛みに変わっていた。体中がだるく、頭痛がして微熱があるようだった。最悪のコンディションだった。重たい体を引きずるようにして朝食に出向くと、すでに大井川農協の七人が集まっていた。もちろんそこには熟女もいた。「おはようございます」と挨拶をし、ボクは彼らの隣に用意されている膳の前に腰を下ろした。その際熟女とも目が合ったが、熟女はさりげなく視線を逸らしてほかの六人の中に紛れ込んでしまった。そんな熟女とボクの間合いを荒井注たちに怪しまれはしないかと一瞬心配になったが、
「飯食ったら吊り橋まで散歩するで!」と彼らは張り切って声をかけてきたので、何とかその心配を杞憂で終わらせるよう密かに努めた。
 ボクらの向かい側には、昨晩と同じように厚木の家族の膳が並んでいた。その様子を見てなっちゃんたちがまだ朝食に来ていないことがわかった。五つの食膳をぼんやり眺めながらボクはなっちゃんを待った。なっちゃんが現れたら、いったいどんな顔で迎えればいいのだろう…?
しかし、なっちゃんたちが現れる気配は一向になかった。料理を全部食べ尽くして八時半を回ってしまったので、ボクはなっちゃんを諦めて大井川農協のみんなと一緒に席を立たざるを得なくなった。なっちゃんに顔を合わせる資格はないと自覚していても未練がましさに足が重かった。

 深山の外は傘を差そうか差すまいかと悩んでしまうくらいの霧雨が舞っていた。風邪気味の体にはかなり堪える寒さだった。ボクは大井川農協の七人と一緒に「寸又峡プロムナード」と呼ばれるハイキングコースの散策に出かけた。いっそ断ろうかと思ったが、いずれなっちゃんたちもやって来るだろうと思い、ボクはけだるい身体をむち打った。熟女は平松政次と入江たか子とその他取るに足らない二人と連れだって足早に前を歩いた。相変わらず足の重たいボクは、荒井注と重信房子と一緒にのんびりと歩いた。金嬉老が籠城したふじみや旅館の前を通ったとき、事件当時のマスメディアが「拳銃のずさんな管理体制が引き起こした」と報道して事件の矛先をずらし、背後にある朝鮮人差別の問題を深く掘り下げることもなく、籠城の様子を生中継する視聴率の高さばかりを取り沙汰したと聞いたことを思い出し、そういう意味では三〇年前と何も変わっていないじゃないか?! と憤りを覚えながらも、厚木の家族も一緒だったら、きっとまたお父さんがライフルを構えてそれを青年がたしなめるんだろうなぁ…とほほえましい気分にもなった。なっちゃんたちが追いついてこないかと何度も後ろを振り返った。山の朝の空気がボクの耳たぶを刺激し、良くも悪くも昨夜の記憶を喚起させた。
 山の目覚めとともに、寸又峡の温泉街も寡黙から活気ある場所へと生まれ変わっていた。といってもやはりオフシーズンのせいか、観光客の数は一抹の寂しさを感じるくらいにまばらだった。土産物店を回りながら、ボクは楕円形をした木製の弁当箱のような器を手に取った。
「メンパっていうのよ、それは」
重信房子が教えてくれた。「メンパ」は別名「曲げわっぱ」とも呼ばれ、檜やサワラで作られた伝統的な弁当箱で、蓋の深さが本体とほぼ等々であるのがいわゆるわっぱと違うところだという。そういえば、昨夜深山の膳にも山菜そばの器として載っていたのを思い出した。どれもかなり値が張るようだったが、これを一つ買って帰って実家の両親に送ろうかと思った。それが両親の仕送りを浪費し続けたことへのせめてもの罪滅ぼしだと思った(もともと今回の旅費も両親の仕送りから充てられているので、そういう意味では全く見当違いの思いつきだが)。というより、これを送ったらお父さんもお母さんも喜ぶだろうなぁ…と、率直に思った。
 ボクらは温泉街の最深部へと足を延ばした。すると伊豆の踊子に登場する天城トンネルを連想させるような「天子トンネル」という名のトンネルが目の前に現れた。二十歳の頃「孤児根性」で歪んだ自我を抱えて伊豆の旅に出てそこで出会った踊子たちとの触れ合いから束の間の清涼感を得た川端康成の心境も、今のボクと似たようなものだったのだろうか…? いや、たとえ似たようなものだったとしても、川端先生は踊子を犯したいなどとは絶対に思わないはずだ! ましてや間違っても踊子に夜這いをかけようと実際に行動に移したりはしないはずだ!
トンネルを抜けると三六〇度、濃い霧と深い緑の原生林に覆われた山肌が迫っていた。そのあまりにも幻想的な風景にボクは絶句して足を止めた。それは身の毛がよだつくらいに勇ましく、かつ心が洗われるくらいに慎ましい風景にもかかわらず、今や放っておくとその勇ましさも慎ましさも急性的あるいは慢性的に失われていきそうな(本当は最初からまるっきり放っておくのが一番いいのだろうが)、諸刃の剣の美しさのようにも感じた。それでも、そこにある種の神を見たような気がした。一昨年九月一一日以降、イスラム原理主義だの文明の衝突だのやたらときな臭い世の中になり、そしてボクがこうしている今にもイラクでは実際に戦争が始まり、何万何千という無垢の子供たちがアメリカの「大量破壊兵器」の犠牲になっているかもしれない…しかし仮に神というものが存在するなら、教会やモスク、聖書やコーランの中ではなく、今ボクの目の前に迫っているような原始的な大自然の中にではないか? 本来、神とはもっとナチュラルでプリミティブなものではないか?
寸又川と大間川が織りなす寸又峡谷の核心部へと、ボクらは岩肌が露出する急な坂道を下っていった。そこを下りきった所、大間ダムが作り出した小さな堰止め湖の上流部に、夢の吊り橋は架かっていた。そして高さ八メートル長さ九〇メートルの吊り橋下には、コバルトブルーという形容に寸分の誤差もない、信じられないほど美しく澄み切った水面が一面に広がっていた。それはすべての喜怒哀楽を一瞬にしてナンセンスにしてしまうような、あらゆる森羅万象を超越したような美しさだった。悲しさや悔しさに涙したことはあっても美しさに涙したことは初めてだった。ボクはゆっくりと吊り橋の中央まで進んだ。一歩進むたびに吊り橋が大きく揺れ、緊張感と快感の虜になった。ボクらは橋の中央で立ち止まり、手すりに肘をかけてコバルトブルーの眼下と新緑の周囲を眺めた。
「いやぁー、いつ見てもここの景色はいいねぇ!」
「ホント、何度来ても飽きないわね!」
ボクの隣で荒井注と重信房子が言った。この水面のように、ボクの心も体も美しく澄み渡ることができればと思った。この水面のように一点の濁りもなく、誰にも後ろ指を指されることがないような日常と人生を送りたいと思った。込み上げてくる巨大な感情を抑えきれなくなったボクは、それを眼下のコバルトブルーに吐き出すように大きなため息を一つついた。そして誰かの視線を感じて左側を振り返った。熟女がボクを見ていた。熟女はボクから目を逸らすことなく微笑んだ。ボクも熟女から目を逸らすことなく微笑んだ。なぜ熟女はボクに微笑んだのか、なぜボクは熟女に微笑みを返したのか、わからなかった。ボクのため息がコバルトブルーの水面に溶けていくのが見えた。

別れの時が迫っていた。一〇時を回ろうとしていた。旅立たねばならない刻限だった。今日は東海道三〇番目の宿場=新居宿のある浜名湖畔まで走るつもりだった。体調と空模様を考えれば、一刻も早く出発するのが得策だった。しかしこのコンディションではたして今日一日走りきれるのか不安だった。いっそのこともう一日深山に滞在しようかと思ったが、雨天の下何もすることなく独り部屋で横たわっていたら余計に情緒不安定になって体調が悪化しそうな気がしたので、やはり予定どおり出発しようと思い直した。この夢の吊り橋の上で何もかも忘れていつまでも揺られていたいと思う自分自身を叱咤しなければならなかった。大井川農協の七人に別れを告げなければならないのが辛かった。なんだかんだ言っても彼らとは何物にも代え難い、人と人との絆のようなものを結ぶことができたような気がしていた。そしてなっちゃんとこのまま会えずじまいで終わってしまうのかと思うと、強烈に後ろ髪を引かれる思いがした。
夢の吊り橋から遊歩道に戻ったとたんに空模様が急転した。雨雲が渦を巻くように移動して雨足が急激に強くなった。ボクらは慌てて天子トンネルに駆け込んだ。
「いやーぁ、いきなり来たな、おい」
荒井注がぼやくとほかの六人の誰からともなく、
「早めに帰り支度したほうがいいわね」という声が上がって全員がそれに同調した。この雨はオレの涙の投影なのか…濡れた髪の毛を拭おうとしたそのとき、前方から見覚えのある人影が四つ、こちらに近づいてくるのが目に入った。それは紛れもなくなっちゃんたち厚木の家族だった。お父さんを先頭に、ボクらに気づくと笑顔で歩み寄ってきた。
「いやーぁ、いきなり来ましたなぁ!」
そう言ってなっちゃんのお父さんが挨拶をした。ボクは昨夜の行動を見透かされていたのではないかと内心怯えながらも、努めてそれを表に出さぬようにお父さん、お兄さんの順に挨拶を返した。
「朝食に見えなかったようですけど?」
重信房子が尋ねるとお父さんは、
「いやぁ、夕べ遅くまで起きてたせいでこの子が寝坊しちゃいまして間に合わなかったんですよ」と言ってなっちゃんを指した。なっちゃんはお父さんとお兄さんの陰に隠れるようにして立っていた。なっちゃんはうつむいてどことなく冴えない様子だった。そんななっちゃんに大いに戸惑いながらも、ボクはなっちゃんにも同じように挨拶を返した。するとなっちゃんは、ボクが一瞬我が目を疑ったほどによそよそしく会釈しただけだった。ボクは膝からガクンと崩れ落ちそうな淋しさと失望を感じた。いったいどうしたというのだ?! 昨夜の弾けるような瞳と笑顔はいったいどこへ行ったのだ?! ボクは一歩踏み出して改めてなっちゃんだけに挨拶をしたい衝動に駆られたが、やはり昨夜の自分をすべて見透かされていたに違いないと勘ぐり、再び全身から血の気が引くような心の底が凍り付くような感覚に襲われてその場に立ち尽くした。
「これからまたバイクで京都まで向かわれるんですか?」
お父さんがボクに尋ねた。ボクはなっちゃんたちと一緒に厚木まで帰りたい、あるいはすぐさまダッシュしてなっちゃんたちから遠ざかりたい心境にもなったが、「ええ。行きます」と短く答えた。
「お気をつけて。またどこかでお会いできることを願っています」
そう言って厚木のお父さんはボクに丁重なお辞儀をし、前方に向き直った。お兄さんも同じようにボクに別れを告げた。なっちゃんは相変わらずうつむいたままだったが、お父さんとお兄さんが歩き出すと、一瞬だけボクに視線を傾けてから再び二人の陰に隠れるように歩き出した。なっちゃんにさよならを言ういとまもなく、ボクはなっちゃんの後ろ姿をしばらく見送った。きっとなっちゃんのお父さんは昨夜のボクの行いを全部知った上であえて普通に接してくれているのだろう。そしてなっちゃんは…ああ…失望や絶望を通り越してこの上のない哀しみが込み上げてきた。ボクはそれを振り切るようにかそれとも単に雨に濡れるのを避けるためか、大井川農協のみんなと一緒に足早に深山への帰路に向かった。トンネルの出口でもう一度振り返った。けれどボクの視界がなっちゃんの姿をとらえることは二度となかった。傘のないボクの頬を流れるのは雨粒か涙かわからなかった。

 深山に戻って身支度をしていると、静岡県全域に大雨洪水警報が発令されたと仲居さんが教えてくれた。「もう一日ゆっくりしていけば?」と仲居さんは言う。正直ここでなっちゃんの帰りを待ってできることならもう一度なっちゃんとゆっくりを話をして先ほどのよそよそしさの真意を確かめたい気持ちが強かったので、仲居さんの提案に大いに気持ちが揺らいだ。
「あらぁ、でも今日はもう団体客で部屋全部埋まってるわよ」
帳場の奥から深山の女将さんらしき白髪の老婦人が顔を出して気の毒そうに言った。これが答えかと思った。
"オマエは行かねばならない。あの子と自分自身を裏切ってしまった罪悪感と絶望感を背負いながら"
そんな神の言葉のようにも聞こえた。ボクはやはり行かねばならなかった。
「どこかほかで空いているところ探してあげようか?」と仲居さんが言ってくれたが、「いや、やっぱり行きますと」きっぱり言って宿代の精算を依頼した。しかし、財布を開いたら所持金が精算金額に僅かばかり足りないことに気づいた。お金を下ろそうにもこの界隈で一つしかない郵便局は日曜日で閉まっているという。ことごとくツイてない…ボクは思わず頭を抱えた。
「いいわよ。うちの口座番号を教えるから、東京に戻ってからそこに振り込んでくれれば」
女将さんがそう言ってくれたのでその厚意に甘えることにした。東京に戻るのはまだずいぶん先の話なのに、ボクは胸が痛いほどうれしかった。
 ちょうど荷造りを終える頃、大井川農協の七人がボクを見送りに玄関に出向いてくれた。
「もう行くんけ?」
荒井注が尋ねたので「はい。お世話になりました」と答えて一礼した。
「まっ、気をつけて行かんかねっ」
「元気でねーぇ」
彼ら一人一人が優しい言葉をかけてくれた。
「あなた、京都からの帰りには絶対に藤枝に寄りなさいよ。大井川農協に来て大石さんいますか?って訪ねれば、私たちの誰かが必ず出てくるから」
重信房子がそう言ってメモ用紙に大井川農協の住所と連絡先と略地図を書いてくれた。重信の本名は大石久子と言った。高峰秀子が演じた『二十四の瞳』の大石先生と同じ名前だと思ったが、そんなことはどうでもよかった。オレはこんなにもダメな人間だというのに…彼らの親切がやはり胸が痛いほどうれしかった。ボクは彼ら一人一人と握手を交わして別れを惜しんだ。最後に握手を交わした相手は熟女だった。
「元気でね。楽しかったわ」
そう言って熟女は夢の吊り橋の上と同じように微笑んだ。皮肉で言っているのかどうか、熟女の手のひらの温かさと柔らかさに触れて昨夜の記憶が強烈に鮮明に甦ってきた。ああ…でも仕方がない。これがオレという人間なんだ…ボクはお茶を濁すようにまた熟女に微笑みを返した。
 ライディングバッグを荷台にくくりつけ、愛車TLR200のエンジンをかけて暖機運転を始めた。重厚な排気音が、雨音を切り裂くように寸又峡の木々に木霊した。
「気をつけて行けや!」
「絶対帰りに寄りなさいよ!」
大井川農協の全員と深山の大女将と仲居さんが玄関の外まで見送りに出てくれた。清らかな満足感とはほど遠いが、それなりの爽やかさと惜別の寂しさが入り交じった笑顔で彼らに会釈をし、ボクはTLR200のスタンドを上げてギヤを入れ、アクセルを開けて雨の中へ飛び出していった。

(リアル)まっこい34
2004.11.19


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デザイン: おぬま ゆういち
発行: O's Page編集部