vol.14
−選ばれた骨髄−
怪しいするめ |
大阪の某漫才師より右のような写真をいただいた。実に怪しいが、それよりもスケジュールソフトに「おかる」と名づけるほうが怪しいような気もする。そういえば、先日こんな滝があることを発見した。 |
風邪のこと |
九月上旬、まだ残暑が大手を振っていた午後、突然39度後半の高熱に襲われた。これほど高い熱を体験したのは小学生以来かもしれない。全身がだるくて、「不愉快」であること以外何も考えられなくなった。とにかく寝ようと思うのだが、むしろ目が冴えてしまい、気持ちの悪い時間を深夜までだらだらと過ごさなければならなかった。少しうとうとして目が覚めたので「やっと朝か」と思ったら、まだ午前2時前でがっかりした。そのうち心持ちは「不愉快」から「心細い」に変わっていく。仕方がないのであざらしに何もしないでよいからとにかくそばにいるように命令し、寝返りを打ったり水を飲んだりして、最悪の時間をどうにかごまかそうとあがいていた。早朝、ようやく38度台に熱が下がっていくらか楽になった。正午には37度台まで下がって、気を良くしてパソコンに向かったりした。ところが、今年の夏風邪はここからが違っていた。夕方、また熱が38度を越え、再び「心細い」状態になってしまった。そうして、それから二週間ぐらいは油断すると風邪がぶり返し、なかなか全快には至らず、今でも時々咳が出る始末である。さらに、今回の風邪は家族全員にまんべんなく効力を発揮し、みな同じように高熱とその後のぶり返しを経験した。唯一子供に移らなかったのが不幸中の幸いであったが、それにしてもたちの悪い風邪だった。そういえば梅雨の頃に、キャンディさんが「あたし1ヶ月ずっと風邪引いてたの」といっていたのを思い出す。そのときはずいぶん大袈裟だなあと思ったが、私も知人に「九月に入ってずっと風邪を引いている」と言わざるを得なかった。同じ種類の風邪であることは間違い無さそうだ。
骨髄バンクのこと |
8年前、当時日本映画学校という巨匠・今村昌平が作ったインチキ専門学校の学生だった私は、ドキュメンタリー実習という授業で白血病の男の子・T君を取材することになった。当時白血病といえば不治の病であった。もっとも、これといった自覚症状がなく日常生活も普通の人と同様に送れるため、見た目には「間近の死」が約束されているとはとても思えない。私たちが取材にいったとき、T君は学校で習ったという「古時計」を大きな声で歌ってくれた。
白血病を直すには骨髄移植しか方法はない。ただし大きな問題が一つある。血液にはA型やB型など型があることは一般的に知られているが、これは正確には赤血球の型のことを指す。一方白血球にもHLAという型があって、これが一致していないと骨髄を移植することができない。しかも血縁関係の無い二人の間でHLAが一致する確率は数百〜数万分の一に過ぎないのだ。欧米では何万人という登録者の中から患者に適合する人物を抽出して骨髄移植を行う「骨髄バンク」というシステムがすでに確立していたが、その頃は日本の骨髄バンクが設立されたばかりで、ドナー登録数も微々たるものだった。その後、日本でも順調にドナー登録数が伸びていったが、T君はそれを待たずに短い生涯を終えてしまった。T君は百年休まずに動いた古時計のわずか十分の一しか生きることができなかったのだ。お葬式でT君のお母さんが人目もはばからずにワンワン泣いていたのが辛かった。
広尾の赤十字病院に取材にいったとき、私は「ついでに」という軽い気持ちでドナー登録をした。ドナー登録は少量の採血といった簡単な手続きで済む。私は血と注射が嫌いな質で、生まれてこのかた一度も献血をしたことがない。そんな私でもドナー登録はできた。献血もしたことがない私は、当時まだ自分の血液型すら知らなかった。看護婦さんに無理やりお願いして、簡易検査で調べてもらったらA型らしい。「簡易」検査だから「らしい」なのだ。看護婦さんは、「70%ぐらいの確率でA型」と言っていた。つまり、私という人間は、30歳台半ばにさしかかろうとしているにもかかわらず、自分の血液型を70%の確率でしか知らないという体たらくなのだ。こんな献血もしたことがない私が果たしてドナーになんかなれるのだろうかと、当時の私は少し不安な気持ちにかられていた。そして、8年たってその不安が現実のものとなった。
3次検査のこと |
あれから8年。骨髄バンクから「一致したので3次検査を受けてほしい」との連絡があった。「意外と早かった」というのが私の感想だった。8年前の私だったら「ドナー登録したのは気の迷いだったので今回は勘弁してほしい」と言っていたかもしれない。しかし、去年父を亡くした私は、命の重みを嫌というほど思い知らされていたので、今となっては断る理由は何も無かった。とにかく、「日本のどこかにオレの骨髄を欲しがってる奴がいる」ということだ。それで人の命が助かるのなら、骨髄の100ccや200cc、お安い御用ってなもんだ……。とまあ、気持ちだけは威勢よく某国立大学病院に出向いた。
病院に着くと、コーディネーターのNさんが出迎えてくれた。骨髄移植推進財団から派遣されるコーディネーターは、ドナーと病院の連絡調整などを行ってくれる人だ。Nさんはもともと医療機器関係の仕事をしていたそうだが、骨髄移植コーディネーターの仕事が忙しくなってきたので、仕事をやめて家事&コーディネーターに専念することにしたとのこと。「若」奥様と呼ぶにはさすがに私の公共の道徳が許さないが、物腰の柔らかいとてもかわいらしい奥様である。コーディネーターという仕事は半分ボランティアなので、おこづかい程度のお給料しかでないんですと言いながら、充実した笑顔を見せてくれる。Nさんは自分も初めて来たという不案内な病院内を一生懸命誘導してくれた。小児科の一画にある小部屋に通されると、ほどなく調整医師のKさんが加わって三人となった。調整医師はドナーに対して医学的な説明や簡単な診察を行う人だ。
まずNさんが骨髄移植について全般的な説明をしてくれたのだが、その説明に先立って、骨髄移植に際して起こったトラブルについての最近の新聞記事の切り抜きを見せてくれた。移植担当医のミス(というか要するに手抜き)によって、ドナーに貧血の症状があることが移植直前になって発覚し、急遽移植を取りやめにしたという事故(事件?)だった。幸いドナーにも患者にも大きな影響はなかったようだが、医療ミスが続いているだけに気になる記事だ。ただ、こういう小さな情報も漏らさずにドナーに提供しようとする骨髄移植推進財団の姿勢には感心する。財団は設立当初から神経質なくらいインフォームドコンセントを徹底しているように感じる。おそらく欧米のシステムを忠実に再現しようとしているのだと思うが、とても良いことだと思う。今後も情報公開は100%実行してほしい。
Nさんの説明に続いて、Kさんが骨髄移植に関する医学的な説明をしてくれた。私が、二三質問をすると、Nさんは逐一メモしていた。ドナーが何を疑問に思うのか? 私の質問も今後の資料として活かされるのだろう。説明が終わると、Nさんは病院までの交通費(電車賃往復で580円)を支払ってくれた。基本的にドナーは費用の負担が一切ない。提供するのは、骨髄と、多少の時間と労力だ。
Kさんの案内に従って小児科の診察室に入った。ここで聴診器を当てられ簡単な診察を行うのだが、その前にKさんと話が盛り上がってしまった。最近小児科になりたい医者が減っているとテレビで言っていたので、そのことをKさんに聞いてみると、小児科の医師はレントゲンを撮るときも子供と一緒についていかねばならないなど、他の科にくらべて負担が大きいにもかかわらず、子供は大人と違って自分の病気を治してくれた医者に感謝することもないし、なかなか報われない、それに、小児科は医療前の子供の精神的な安定に配慮しなければならないなど、医療行為以外の部分が大きな意味を持つのだが日本ではその事がなかなか認めてくれない、まあでも、予算がなくたってそんなもん自分たちでやっちゃうっていうぐらいの気持ちなんですけど…………。と、Kさんのテンションはどんどん上がりそうだったので、私は自らシャツをめくり上げて白い腹をさらけ出し、「(さあ診察を始めましょう)」と無言で訴えたところ、Kさんはハッとして、「ごめんなさい。変な話しちゃって」と言いながら、私の白い腹にようやく聴診器を当てたのでした。詳しいことはよくわからないが、全国の小児科のお医者さん、ガンバレ!
採血のこと |
聴診器で白い腹の中の音を聞かれ、ネズミ色のバンドを腕に巻いて血圧を計られ、麻酔でラリったことは無いかなどの問診が済むと、いよいよ3次検査のメインイベント「採血」だ。人によっては全然メインイベントでも何でもないかもしれないが、私にとってはそれなりの覚悟が必要な作業である。
私の父は血に弱かった。昔、いとこがカマイタチでふくらはぎをパックリ裂いたことがあった。カマイタチによってできた傷は、骨が見えるほど深かったのに、ほとんど血は出ていないというまことに不思議な傷だったらしい。たまたま近くにいた父は、いとこをかついで医者に駆け込んだのだが、医者が傷の処置をしているのを見ているうちに父は気絶してしまったそうだ。それ以外にも父の気絶伝説は数知れない。
そんな父を見てきた私も注射は苦手だ。自分にも父の遺伝子が受け継がれているのではないか。そう思うとちょっと怖い。だからこれまで一度も献血をやったことがないのだ。でも、これまで何度も注射をしたが、父のように気絶したことは一度もない。やっぱり父はちょっと過剰だった。私は父とは違う……と考えているうちに、なんだかボーっとしてきた。すでに採血が始まっているのだ。やばいやばい……意識をはっきり保たなくては……。Kさんが私から抜き取った血でいっぱいになった注射器を外しているのが見える。よかった。これで終わりか。と思ったら、もう一人の看護婦さんが別の注射器を管に取りつけているではないか。「あ、あのー、今日は何cc採るんですか?」と聞いたらKさんが「あ、ごめんなさい。今日は35ccです」と答えた。35ccってどれぐらいなんだろう……注射器一本で何ccなんだろう。あと何本で終わるのかなぁ。わー、看護婦さんが腕の筋肉がムキムキになるほど力一杯注射器のピストン(?)をグイグイ引っ張ってるう……そんなに一生懸命オレの血を抜かないでくれえ…………
「大丈夫ですか?」と聞かれて、私は「ちょっと」としか答えられなくなっていた。「横になって」という言葉を待つまでもなく、私はベッドの上に身体を投げ打っていた。「うわー、なんだかすごくみっともないぞー」と思いながら、私の視界は天井も床も曖昧になっていた。看護婦さんが私の足を高くしてくれたおかげで少し楽になった。コップに水をもらい、ラムネ菓子のようなものをもらって口に含む頃には、もう起き上がっていた。天井は上にあるし、床は下にある。あー、よかった。
それにしても、たかが採血ごときでこんなことになって、実に恥ずかしかった。やはり私は父と同じ穴のムジナだったということか。
骨髄移植は行われるのか? |
以上で3次検査は終了である。まあ、私の場合個人的な事情で気絶寸前という大袈裟な事態に陥ったが、普通の人は採血してハイお疲れ様なのである。今後は1〜3ヶ月後に来る連絡を待つことになる。この間、徹底的な血液検査によってドナーと患者のHLAがどこまで一致しているか、またドナーの健康状態に問題がないかどうかなどが調べられる。もちろんそれらに合格しなければ先には進めない。また、3次検査の時点でドナー候補が複数存在する場合もある。そのときは、もっとも条件のよいドナーが選択され、他の候補はこの時点で落選となる。そういった諸々の結果が数ヶ月先にわかるわけだ。3次検査から先に進むのは約半数らしい。ドナーとして選定されると、家族を含めた最終同意、そして骨髄採取となる。まだまだ先は長い。
晴れてドナーに選ばれた場合は、引き続き体験レポートを書き記したいと考えている。
おぬま ゆういち (2000.10.1 岩間にて)
(※ 財団法人骨髄移植推進財団のホームページ http://www.jmdp.or.jp/)
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